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工藤家の「南部の曲屋」 [な~るほど]

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工藤家住宅の旧所在地は岩手県紫波郡紫波町で
このフォトに見られる工藤家の形式でもある「南部の曲屋」は
盛岡を中心とする旧南部藩領という 比較的限られた地域内に
分布する特異な民家形式である L字型の平面を持ち
突出した土間の先端にウマヤを置くが こうした内厩の形式は
北国の民家に見られるもので 特に春の短い東北地方北部では
農耕のためには 牛よりは動きの俊敏な馬を使う方が都合がよかったが
馬は癇が強く その飼育は牛よりもずっと難く そこで厩を屋内に設け
馬の健康状態を常に把握できるようにしたという

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東北の村 工藤家住宅 [めぐり逢い]

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続いて現れたのは東北の村のひとつ 工藤家住宅
旧所在地は岩手県紫波郡紫波町舟久保で
馬と共に暮らした南部の曲屋 農家(名主の家)の曲屋
構造形式は寄棟造 茅葺 桁行19.2m 梁行11.1m/南面に馬屋突出
寄棟造 茅葺 桁行7.6m 梁行6.3mで
建築年代は宝暦(1751〜1763)頃で 曲がった部分は
馬屋になっていて 土間境にある囲炉裏は
土足のまま踏み込んで暖まれるようになっていたという

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緑地に広がる民家村 [気ままに散歩]

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さて古民家の野外博物館 日本民家園を巡って来た
本館展示室 宿場 信越の村 関東の村 神奈川の村を
巡って来たが 案内板によるとこれから東北の村
そしてその他の建造物が有るらしい
案内板によると もうそろそろ展示も終わるようである

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移動可能の船頭小屋 [ブラボー]

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これがその船頭小屋である 1間四方の小規模な建物で
軸部は玉石の上に土台を井桁に組み 杉の角柱を四隅に立てて
貫で固めている 屋根は正面に腕木を出して小庇を造り
背面を片流れとした招き造りにして 杉皮葺である
正面に腰高障子2枚を建て ほかは堅羽目の上に化粧の目板を打った
板壁とし その前の土間に石組の囲炉裏を切り 両側の壁際に取り付けた
板に腰掛けて暖をとった なお 柱の外側に取り付けてある鉄の輪は
出水の際に そこに丸太を通して小屋を担ぎ 移動させるためのもの
船頭小屋は昭和初期の建物であるが 川崎市内における
かつての渡し場の様子を伝える唯一の遺構として重要である

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機能的な船頭小屋 [ブラボー]

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こちらは清宮家と菅原家の間の通りぎわに在る菅の船頭小屋である
その菅の船頭小屋 担いで運べる機能的な小屋の案内板
建築年代は昭和4年(1929)規模 桁行1.8m 梁間1.8m
構造形式は招き屋根 杉皮葺 附道標 2基である
この船頭小屋は もと多摩川の「菅の渡し場」にあり 船頭が客を待ち
川の見張りをしたり休憩するのに用いていた 菅の渡しは
多摩川右岸の菅と対岸の調布を結ぶ渡し場であり 商品作物の輸送
肥料や日用品の仕入れ 親戚や寺への往来など 生活圏を
共通する流域の人々が その交流のために設けたものである

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変化する柱の太さと数 [な~るほど]

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ほど近い地域に建てられていた旧伊藤家住宅など
土間境の柱は他の柱よりもひとまわり太くするのが通常で
伊藤家の場合も例外ではない これは必ずしも構造的に
不可欠というわけではなく 家を立派にみせるための
いわば意匠の面からの要求で 時代が降るにしたがって
次第にその太さを増すようになるが 清宮家の土間境柱は他の柱と
同一太さであり 時代の古さを感じさせる 軸部に使用される貫は
床上部では伊藤家の3本に対して2本 土間廻りでは4本に対して3本と
いずれも少ない 貫は柱相互をつないで 礎石の上に立てられる柱を
直立させるための部材だから 柱を直接地中に埋め込んで
固定してしまう掘立柱構造の場合には不必要であった したがって
貫数の少ない当家の構造は 掘立柱時代の名残とも考えられる

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変わり行く古民家住宅 [な~るほど]

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清宮家住宅の屋根裏である 津久井郡・三浦郡を除く
神奈川県内の古民家は 広間型3間取が一般的だが清宮家は
整形4間取であった この間取りは幕末期に一般化するが
それとの違いは裏側の2室の梁行がわずかに1間しかないことである
そしてヒロマと裏部屋との境の中央に柱が立つこと
さらにこの境に南面する押板を設けることである
構造は正統的な四方下屋造に近いが 小屋組の扠首に
棟束を併用するのは この地方ではごく古い時期にのみ見られる
手法である 棟束には桁行梁行両方向に小屋貫を通すが
こうした束や貫は小屋裏を利用するためには
邪魔な存在であるから 次第に扠首だけで支える構造に
変化したのだろうと思われる

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神奈川県内 屈指の古民家 [ブラボー]

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旧清宮家住宅は神奈川県内では屈指の古民家であるという
江戸初期まで溯るのではないかとされているが 後代の改造が激しく
旧状の不明な箇所がかなりあるのが惜しまれるという
全体の造り及び外観上の大きな特徴は きわめて閉鎖的で
開口部が極端に少ないこと(逆にいえば壁が多いこと)
そして近世民家特有の縁側がないことである
6kmほど離れた川崎市麻生区金程には 17世紀末の建築とされる
旧伊藤家住宅があり 日本民家園に移築されているが
比較してもなお古式と思われ 比較して観ると面白と言う

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旧清宮家住宅間取り [な~るほど]

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神奈川の村 北村家住宅の次の住宅は清宮家住宅
(きよみやけじゅうたく) 棟に花が咲く古い様式の民家である
旧所在地は日本民家園にほど近い 神奈川県川崎市多摩区登戸
農家で構造形式は寄棟造 茅葺 桁行13.6m 梁行8.2m
建築年代は17世紀後期で 園内で最も古いと考えられる家で
非常に閉鎖的な造りで 屋根の棟にはイチハツという
花が植えてあり 5月には花が咲くという

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柱は太い骨組みの住宅 [ブラボー]

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厚いムシロを敷いて生活していた竹簀子床の北村家住宅
構造は標準的な四方下屋造 小屋組は扠首に棟束を併用し
束同志を貫で緊結する古式な構造である
束とは「束柱」の略で 梁(はり)と棟木(むなぎ)との間に立てる
短い柱 貫(ぬき)とは木造建築で柱等の垂直材間に通す水平材
柱材は胡桃を主とするが 桁行の梁を受ける各室境の柱に
丈夫な欅を用いていて 柱は木太く骨組みはがっしりしている
オク(デイ=床の間のある座敷)には簡略なものながら床の間が
つくのも新しい傾向であるが まだ天井は張られていない
ヘヤには押入が登場し また妻側2間を開口部とするのは
進んだ形式である 縁側もオク(デイ)のみでなくヒロマの前面にも
設けられて 江戸中期以降の一般的な民家の姿にさらに近づいている

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民家園に五月人形 [ブラボー]

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五月人形が定着したのは江戸時代で 菖蒲が
武事・軍事を尊ぶ「尚武」に通じることから 男子の武運栄達
さらには健やかな成長を願う行事として 定着した
紙の鯉のぼりや家紋を入れた内職・又鎧・兜も登場し
男児の成長と無病息災を願う行事は 武家社会を中心に盛んに行われた
身も守る鎧・兜は昔 武家社会の男子にとって非常に大切なもので
今日では男子の身を守るという意味をもち 端午の節供に飾ることで
男の子の誕生を祝い 交通事故や病気に掛らないよう
身を守ってほしいという願いがこめられている

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端午の節供(菖蒲の節供) [な~るほど]

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民家と共に時を巡ったのは四季折々の行事 そして祈り
端午の節供は菖蒲の節供で もともと中国の習俗を起源とする
古く中国には五月を忌み 初午の日に薬草によって災厄や病魔を
払うならわしがあったという 中国では奇数は陽数
偶数は陰数とするもので 陽数(奇数)は縁起のよい数字
という考え方で 端午の節供の風習が日本に伝わり
宮廷や武家の年中行事として発展したのが起こりといわれている
菖蒲やよもぎなどの薬草を軒に差し 厄除けをする習慣は
その流れをくむもので 桃の節供に対し菖蒲の節供と
いわれる由縁であり 端午の節句は五月五日に男の子の誕生と
その成長を祝う行事で 奈良時代から続く古い行事である
元々は月の【端】(始め)の【午】(うま)の日という意味で
現在の様に五月のみのものではなく 【五】(ご)と【午】(ご)の音が
同じ事から 五月五日へと変わっていったとも伝えられている

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民家園の鯉のぼり [ブラボー]

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訪れたのは四月の中旬 端午の節句の2週間くらい前であった
日本民家園の一角には端午の節句の鯉のぼりとのぼり旗
(五月幟や武者幟)が建てられている 「端午」とは古来
月初めの午の日を指したが 奇数月の同じ数字の重なる日を
節供としたならわしから いつの頃からか五月五日に限られるように
なったもので この日が「子どもの日」として祝日に定められたのは
昭和23年 厄除けにつながる菖蒲湯の風習を残しながら
武者人形を飾って 男の子の成長を祝う習慣は わが国独特の
端午の節供行事として現代にも受け継がれている
鯉のぼりの由来は 鯉が「龍門」という急流の川をのぼると龍になり
天へ登るという中国の伝説からで 健やかな成長と立身出世を願い
鯉のぼりを立てることは 男児の誕生を天に告げ
その守護を願うための目印ともされているという

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北村家住宅間取り [めぐり逢い]

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貞享四年の墨書が残る古民家 北村家住宅
構造形式は寄棟造 茅葺 桁行15.6m 梁行8.9m
建築年代は貞享四年(1687) 墨書
建物区分は農家(名主の家)であった
竹簀子(たけすのこ)床に 厚いムシロを敷いて生活していた
竹簀子 (「たけずのこ」とも)とは 細い竹 細く割った竹などを
編んで作った敷き物 また竹を網代(あじろ)のように組んだもの
江戸時代初期の民家としては非常に明るく開放的な造りである
ヒロマとダイドコロ(土間)の間の柱には ウロコのような模様があり
これはカンナが普及する前の チョウナという刃物で
削った跡であるという

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神奈川の村 北村家住宅 [めぐり逢い]

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さて山梨県の広瀬家住宅を終えると 次は神奈川の村
旧北村家住宅である 旧所在地は大住郡鍛冶谷村
(秦野市堀山下)で 名主の分家と伝えられている家である
解体移築の際に 柱枘より墨書銘が発見され 貞享4年(1687)の
建築であることが判明 これは建立年時の明らかな民家としては
東日本では茨城県出島村の椎名家住宅 延宝2年(1674)に次いで
古いという また建築を手掛けたのも同村及び近在の大工であり
こうした面からも当地方民家の代表例とするにふさわしいという

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自然のなかの日本民家園 [めぐり逢い]

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生田緑地内にある日本民家園
急速に消滅しつつある古民家を 永く将来に残すことを目的に
昭和42年に開園した古民家の野外博物館
水車小屋・船頭小屋・高倉・歌舞伎舞台など25件の建物が
このような自然豊かな環境のなかに再現されていて
病み上がりの私には 体力を消耗してキツイのだが
この民家が存在するのと同じくらいの環境のなかに
在ることが自然であり また興味をそそるのであり
古民家を巡っていても 飽きるということが生まれない
そんな日本民家園なのであり
民家に関する民俗資料なども収蔵していて
日本を代表する古民家の野外博物館の一つである

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広瀬家住宅の内部 [時空]

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正面右妻側の中央柱と イドコ・ヘヤ(ナカナンド)境の
中央柱は いずれも棟まで達し いわゆる棟持柱である
棟持柱構造も甲州型民家の特徴のひとつであるという
内部の作業空間であるドジ(土間)と 居間であるイドコの間には
何も仕切りがなく イドコの床は土のままの土座住居である
甲府盆地では18世紀前半まではごく普通にみられ 土間側から
床上部を見ると 床を支える根太の木口がそのまま見えている
広瀬家は甲州型民家の最も古い遺構のひとつであり
またその改造過程を追うことによって この地方の民家の
発展過程をも知ることができる 貴重な建築であるという

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質素で落着いた住宅 [めぐり逢い]

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当家の外観は同時期の他の地方の民家と比較しても さらに
閉鎖的である しっかりとした開口部はザシキ前面中央部のみで
他にはイドコや土間妻側に少しばかりの下地窓を開けるだけ
つまり正面を除く三方には基本的に開口部はない
そして軒先は普通の人でも頭がつかえるほど低く
きわめて古めかしい造りといえるという

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切妻草葺の屋根形式 [ブラボー]

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旧広瀬家住宅のような屋根形式が分布するのは
全国的にみても奈良・大阪・岐阜・富山そして山梨のみだという
奈良・大阪における切妻草葺の出現は江戸後期だから
それほど古い歴史を持ってはおらず そんななか
山梨県の切妻造はすでに18世紀前半には一般化しているから
飛騨の合掌造と並び その成立はかなり早かったが
なぜこの地方に 早くからこうした形式の民家が出現したのかは不明で
合掌造と同じように養蚕との関係も考えられるが
17世紀末頃に建立されたと推定される旧広瀬家住宅では
まだ中二階がなく 養蚕を考慮した造りにはなっていない
何か別の要因を考える必要がありそうと思われている

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広瀬家住宅間取り [時空]

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広瀬家住宅の間取りは広間型の一種で 土座のイドコの奥には
板敷の3室が並ぶ イドコとはムシロ(筵)敷の部分で
「土座」とは地面をつき固めて 茅束を敷き詰めている床である
デイ(ザシキ)は客座敷 ナンド(オクナンド)は寝室で
両室の間のヘヤ(ナカナンド)へはイドコから入れず
デイの奥の間のようになっている もともとは
仏壇が置いてあり 仏間でだったかもしれないという

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山梨の広瀬家住宅 [ブラボー]

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沖永良部の高倉を過ぎると在るこの大きな住宅
江戸時代中期ごろ建てられた 旧広瀬家住宅である
その規模は桁行14.5m 梁行8.9m 構造形式は切妻造 茅葺
広瀬家住宅は山梨県塩山市北方の大菩薩峠付近を源流とする
笛吹川の支流の東岸・上萩原中小沢である かつて付近の甲府盆地
東部一帯には切妻造の草葺屋根(地元では切破風造と呼ぶ)の
民家が散在していた 草葺屋根のごく一般的な屋根の形は寄棟造で
入母屋造がこれに次いで多い 切妻造は形としては最も単純だが
草葺屋根としては圧倒的少数派であるという

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高倉 高床の倉 [な~るほど]

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高倉とは高床(たかゆか)の倉で 奄美や沖縄の諸島では穀物を貯蔵
また湿気を防ぎ通風をよくするために
床を高くして上を倉とする 四角や六角などの平面で
屋根は宝形(ほうぎょう)造または六注造で茅葺きである
床下の柱は 高倉の大きさにより4本 6本 8本などになり
床下は吹抜きで作業場としても使用される 倉部分の柱は
上にゆくにしたがって外側に広がる外転(そところ)びに
立つことが多く 倉への出入口は倉の板壁にあけられる場合と
屋根の軒下にあけられる場合とあるという

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床高が約2.4mの高倉 [な~るほど]

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高倉の屋根は床組上に立てた束柱に桁を廻して 扠首(さす)組の
小屋を架け 小棟造の茅葺屋根として 軒下にゆるやかな
傾斜を持つ蛇腹様の板床を造っている 床高は約2.4mあり
 平側中央に入口を設け 出入りに弥生時代以来の形式を持つ
角材に刻みを入れた一本の梯子をもちいている
奄美諸島の高倉は床組や小屋組が発達し 木組の工法にも
洗練された手法が見られ それはこの高倉にも認められ
高倉の発達した形を窺うことができるという
建築年代は19世紀中頃と推定される 川崎市には沖縄出身者が多く
この高倉はその人達の郷土の建物として移築されたという

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沖永良部 高倉の詳細 [な~るほど]

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柱の上に茅葺屋根がのった高倉 沖永良部の高倉は
鹿児島県大島郡和泊町に在った倉で
構造形式は寄棟造 茅葺 桁行2.7m 梁行2.5m
建築年代は19世紀後期で ネズミ等の侵入を防ぐため
柱の頭部には鉄板が巻かれていて
倉の下は子どもの遊び場や休憩所や作業場に
なっていたという

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沖永良部の高倉 [めぐり逢い]

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次に展示されていたのは沖永良部の高倉である
この高倉は もと奄美諸島の沖永良部島和泊にあった建物で
昭和44年に 日本民家園に移築 復原修理したもの
高倉は1間四方に丸柱を立て その上に茅葺屋根をのせて
その屋根裏を倉として用いた形式である
珊瑚礁岩の礎石上に立つ丸柱はイジュという毒性のある木を用いた
直径32~37cmほどもある太い柱であり
その姿は古代の高倉を髣髴させる 西南諸島に
広く見られる高倉の形式であり 床下部は作業場 休憩所
物置などに利用された 柱は足元を貫で固め
頂部に梁(むるき)を渡し その上に床組を造る
床組は梁上に大根太9本を渡す発達した構造であり
それとともに大根太の鼻を肘木形に造り 床四周に廻した
枠木の四隅に反り上げて軽妙である 

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素朴な玄関入口 [めぐり逢い]

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ゲンカンは特別の出入口で 畳が敷かれるが
後世の式台構えのような武家住宅的な体裁を伴わない
農家らしい素朴な玄関の形式である
ゲンカンからナカノマ オクはひと続きの接客空間で
床の間を備え また面積的にもたいへん充実しているが
まだ天井はなく過渡的な形態である 客用の風呂・
上便所は幕末期の嘉永4年(1851)頃のものであるという

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海路での観音崎と富津 [な~るほど]

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房総・九十九里浜の旧作田家住宅 千葉県には関東の民家の主流である
広間型3間取の伝統がない いくつかの間取りのタイプがあるが
それらに共通するのはヒロマの背面にナンド(寝室)を置くことで
これは客座敷の背後に寝室を置く広間型3間取とは 明らかに
系統を異にしていて この型の間取りは茨城や栃木 群馬にも
見られるが まとまって分布するのは神奈川県の三浦半島のみ
三浦半島の観音崎と房総の富津との間は 浦賀水道を隔ててわずか
10kmほどしか離れていなく 海路によって住文化を共有したと思われる

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漁具置場と漁夫の寝場 [な~るほど]

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作田家の間取りは 漁家であっても農家の間取りとさほど
変わらないという 移築前の形式にならって土間の妻側に
3室の板敷のシモベヤが復原されているが
これらの部屋は漁具の置場や漁夫の寝場所として使用して
ここだけが漁家らしい特徴ということになるという
作田家住宅は床上6室と土間とからなり 家の中心はこのカミで
桁行が4間もあり、家柄を反映してきわめて広い
日常的な接客の場で 前面の3間を格子窓とするのは この時期の
関東の古民家に共通する構えである カミとナンドとの境には
仏壇と押板とが並ぶ チャノマは囲炉裏を中心に
日常生活が営まれる所で もっと古い時期には
おそらくカミとの仕切りはなかっただろうと思われる

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屋根を支える大丸太 [ブラボー]

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屋根は二つあり 間には大きな丸太を二つに割って作った
雨樋があるという 合掌造の構造上の特徴はチョーナ梁の使用で
チョーナ梁は斜面に生えたために根元が大きく湾曲した木を
梁として使用したもので 手斧の柄に似ているところから
渡してある曲がった梁を「チョウナ梁」という
斜面に生える樹木は雪などによって根元が曲がり 自然の力に
耐えて丈夫なので 家のの梁として使われている
なかなか見応えのある分棟型民家 作田家住宅である

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屋根裏のチョーナ梁 [ブラボー]

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屋根裏である 耐震設計なのか見事な造形美を見せる
居間の梁は松の曲材を巧みに組み合わせている
構造は梁行が5間と広いため 二段に組んだ梁行梁の上に
さらに二の小屋を組んで 1本の扠首の長さを短くしている
すべて下から見渡せる梁組は豪壮で やや細身ながら
曲がりくねった梁を自在に組み上げた大工の腕は見事である
差物の使用も時期的にかなり早い 
作田家は千葉県上総地方に残された唯一の分棟型民家であり
かつ網元という特異な家柄と それに見合う
豪壮かつ高質な居宅で 民家史上貴重な存在である

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