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新河岸川の高沢橋 [ブラボー]

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六塚稲荷神社の先にある 新河岸川に架かる高沢橋
現在の新河岸川は河川が整備がされているが
これは明治時代のフォトで 眼鏡橋であるとの説明板が在った
明治時代 対岸から撮影した眼鏡橋(現高沢橋) 高沢町と石原町の
境を流れる赤間川(現新河岸川)に架けられた石橋のアーチ橋
その姿が美しく水面な映り 眼鏡のように見えることから
「めがね橋」の名で親しまれたという その昔 農産物や特産品の
集散地として機能し 発展した川越城下 川越と江戸で
物資が輸送され 川越は「江戸の台所」とも呼ばれる
商人の町として繁栄したが その繁栄ぶりが窺える

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時代を先取る社殿 [ブラボー]

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本殿の梁柱構造は それほど複雑ではなく 彫刻も江戸彫りが
川越で最盛期を迎える時期より早いこともあり 控え目であるが
板支輪などにのびやかな渦紋が彫られ 気品が感じられるという
また壁面に嵌め込まれた彫刻は 背面に亀を助ける浦島太郎
東側面は武士と唐子(中国の子ども)が描かれ 脇障子の狐や扉の
左右脇壁の鯉など変種に富んでおり 工夫が凝らされている
なお 身舎(もや)背面の縁下板壁に狐の出入りする穴があけられ
基壇の中に続いているという

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本殿の祭神 豊受姫命 [な~るほど]

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社号 六塚稲荷神社 本殿である 祭神は豊受姫命で
本殿内には荼枳尼天像を安置している 新河岸川を背にして
札の辻から西に延びる東西道の高沢橋東詰の小高いところにあり
本殿は 高い基壇の上にたつ銅板瓦棒葺屋根の一間社流造の建築で
建築年代は 棟札から文政2年(1819)に造営されたことがわかる
境内には琴平神社・三峰神社・八幡神社の末社三社が在り
大蓮寺内にあったものが 明治初めの神仏分離により当社へ合祀され
八幡社には 寛文7年(1667)の棟札があり 約200年以上
大蓮寺に祀られていたことになる 歴史ある川越である

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六塚稲荷神社 [めぐり逢い]

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来迎山 紫雲院 大蓮寺にほど近い所に在るのが
六塚稲荷神社(むつづかいなりじんじゃ)
札ノ辻に近い菓子屋横丁の斜向かい 大蓮寺の西側にあたり
ここには大蓮寺にあった三つの神社が六塚神社に摂末社として
祀られている 六塚稲荷神社の由来は川越城主太田道真
(太田道灌の父)が 当地を開拓する際に切り崩した六つの塚に
稲荷社を祀ったといい 六つの塚の稲荷社だから六塚稲荷と
また 六つの稲荷社を当社へ合祀したから六塚稲荷と称したともいう
神社の大鳥居の右奥にもうひとつの鳥居があり 左から
琴平・三峯・八幡の三つの神社がある この三社は明治初期まで
大蓮寺境内にあり 神仏分離令により ここに合祀されたという

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大蓮寺の鐘 「時の鐘」 [ブラボー]

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いきなり登場したのは 川越のシンボル「時の鐘」である
この「時の鐘」の鐘 大蓮寺の鐘が使われたことがあるという
最初の時の鐘は宝暦元年(1704) 老中秋元喬知が塩山から
持ち込んだもので 3代後の涼朝は山形へ持って帰った
次の松平朝矩は 長喜院から鐘を借り 次の直恒が作った鐘は
4年余りで 焼けてしまい 行伝寺の鐘を70年借りていた後
斉恒が作るが 安政3年(1856)また火事で焼失 その後5年間直侯が
新鋳するまで時の鐘が 大蓮寺の鐘であった 現在の鐘は
明治27年(1894)のものであるという

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大蓮寺 本堂 扁額 [時空]

大蓮寺 扁額.jpg
大導寺駿河守政繁の母 蓮馨尼が帰依した 感譽上人は学徳高く
信徒3000人弟子600人 多くの高僧を育て その中には徳川家康公が
深く帰依した存応上人(観智国師)がいる 開創は9ヶ寺ある
観智国師は増上寺の形成に貢献した高僧である
大蓮寺は その後延宝年間(1673~1680) 七世超譽上人代に火災にあい
本堂 古記を焼失 大蓮寺に信仰のあった川越城主
酒井河内守の支援により 同年間再建した 現在の本堂は
万延元年(1860)再々建 客殿は平成7年(1998)新築された

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来迎山 紫雲院 大蓮寺 [めぐり逢い]

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東明寺の川越夜戦跡辺りを巡り 時の鐘の在る
蔵造りの街並みに向かう途中 先の広済寺の西側に在ったのが
この来迎山紫雲院 大蓮寺 本尊は木造阿弥陀如来像である
室町時代末期に 川越城を攻略した北条氏康は家老大導寺駿河守政繁を
城将とした 信仰厚い母堂の蓮馨尼は 感譽上人(戦国時代の浄土宗の僧)に
帰依しており 川越に感譽上人を招き蓮馨寺と見立寺を建立した
感譽上人は 永禄6年~9年(1563~1566) 増上寺の十世を勤め
辞して蓮馨寺に帰り 翌年蓮馨尼が没すると導師を勤めた
大蓮寺の開創が蓮馨尼の没年月日となっていることから
蓮馨尼の菩提を弔うために開山されたと思われている

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東明寺口の川越夜戦  [な~るほど]

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約半年間 篭城していた北条軍に 北条氏康が八千騎を率いて
援軍としてかけつけ 4月20日の夜陰に乗じて猛攻撃を開始した
これに呼応して城兵も城門を開いて打って出たので 東明寺口を中心に
激しい市街戦となり 多勢をもって油断しきっていた
上杉・古河の連合軍は 北条方の攻撃に耐えられず散々となり
松山口に向って敗走をはじめ この乱戦の中で上杉朝定は討死し
憲政も上州に落ちのびたと伝えらる 敵に比べて問題にならない
少ない兵力で連合軍を撃滅したこの夜戦は 戦略として有名となる
河越城籠城約3,000人+援軍8,000人の北条軍が 上杉・古河の連合軍
約8万人を打ち破った河越夜戦 日本三大奇襲のひとつである

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川越夜戦跡の碑とは [めぐり逢い]

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東明寺は稲荷山稱名院と號す 時宗にて相模國藤澤清浄光寺の末寺
本尊虚空蔵立像にて慈覺大師の作なりと云 靈験あらたなるを以って
深く秘してたやすく拝することをゆるさずと云う
 
さて 本堂の前に建つ「川越夜戦跡」の碑 その川越夜戦とは
川越城は1457年に 戦国時代扇谷上杉氏により 扇谷上杉家上杉持朝の
家臣であった太田道真・道灌親子が築城したものだが
天文6年(1537)の戦いで 北条氏綱に川越城を取られた扇谷上杉朝定は
再びこれを奪還すべく 山内上杉憲政 古河晴氏と連合して総勢
八万余騎をもって 天文14年10月に川越城を包囲した
一方 福島綱成のひきいる城兵は わずか三千で立て籠もったが
翌15年春にはすでに兵糧も尽きて非常な苦戦におちいってしまった

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本尊の虚空蔵菩薩 [な~るほど]

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東明寺 本堂である 本尊は虚空蔵菩薩
東明寺の説明文による「虚空蔵菩薩」
虚空蔵菩薩 鎌倉時代以前に創立されたと言われる
当山 稲荷山称名院東明寺の本尊様は「虚空蔵菩薩」で この菩薩様は
智慧と福徳を大空(虚空)のように無尽蔵にお持ちであるところから
「虚空蔵菩薩」と名付けられた わが国では平安時代から信仰され
求聞持法(ぐもんじほう)とよばれる〝頭脳を明晰にし 記憶力を増す〟
ための修行をする時の本尊なのであるが 後世になって一般大衆に
広く仏教が広まるに従い 福徳の面が一層強く信仰されるようになり
現在のように 学問と福徳を授ける菩薩として広く崇敬され
信仰されるようになった 尚この菩薩様は 十三仏の一仏で 十二支の
丑寅生れの方々の守り本尊でもあり 亦毎月十三日が縁日であるという

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川越夜戦跡の碑 [な~るほど]

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東明寺は 惣門が今の喜多町の中ほどにあったことから
喜多町の古名を東明寺門前町と称したといわれていて
その広大なその寺領では 天文15年(1546)四月に戦われた
上杉 北条軍の川越夜戦は 一名東明寺口合戦といわれ、この地の
要路松山街道を含んだ東明寺寺領と境内で争われたものであり
現在 境内には 「川越夜戦跡の碑」が建っている
「川越夜戦」は 日本三大夜戦(日本三大奇襲)の一つで
敵の油断を誘った「河越城の戦い」 調略を駆使した
「厳島の戦い」 天運を味方に付けた「桶狭間の戦い」である
現在は川越の観光地から少し離れ 静かに時が流れている

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東明寺山門 惣門は [な~るほど]

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稲荷山 称名院 東明寺は 川越台地の先端が水田地帯に接する
北の端にあり 新河岸川を境として 入間川を主流とする分流が
幾筋も流れ 水田地帯を形成していて 古くから
この穀倉地帯を領する 多くの武士団が存在し 東明寺はこうした
土豪の一人 河越氏の庄園の東端に連なる広い寺領を有していた
その寺領は東明寺村・寺井三か村・寺山村に及び
惣門は 現喜多町の中ほど辺りにあったと言われている
先の広済寺と札ノ辻の 中間在りである

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稲荷山 稱名院 東明寺 [な~るほど]

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広済寺を離れ 北へと進むと 直ぐ左手に現れたこの寺標
東明寺(とうみょうじ) 参道入口である
東明寺は時宗の寺院で 山号は稲荷山 院号は称名院
(しょうみょういん) 本尊は虚空蔵菩薩 (慈覚大師作)
時宗とは 一遍上人を宗祖 真教上人を二祖として両祖の教えを基に
名号「南無阿弥陀仏」を拠りどころにする浄土門の一流である
川越は鎌倉時代には 後自河天皇の皇室御領で 当時河越之庄
(河越荘=請所(うけしょ)の荘園)で 武蔵国でとても優秀の地位を占め
東明寺は河越氏の荘園(河越荘)の東端に広い寺領を有していた
境内には「河越夜戦跡」の石碑があり 河越夜戦は「東明寺口合戦」とも言われ
河越夜戦の激戦地なったのは 東明寺の広い寺領である

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広済寺の天狗さま [な~るほど]

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広済寺の山門の手前にある 入口に刻まれる「天狗の羽団扇」
天狗のうちわと獅子であり 広済寺に伝わる天狗のうちわ伝説
その昔 広済寺の杉の老木に天狗が住んでいて 川越の町が
大火事になろうとした時 持っていた団扇で風向きを変えて
火災から守ったという伝説 天狗の羽団扇は天狗の中でも
大天狗または力の強い天狗が持つとされる団扇で
羽団扇自体が強力な神通力を有するとされる

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札ノ辻の先 広済寺 [めぐり逢い]

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さて 川越札ノ辻交差点から向かったのは北側
「川越夜戦跡の東明寺」であるが 途中巡り逢ったのが
広済寺(こうさいじ) 青鷹山慈眼院と号し 曹洞宗の寺院
その山門と鐘楼である 北条氏康軍と
上杉憲政・上杉朝定・足利晴氏の3者連合軍が
武蔵国の河越城の付近で戦闘し 北条軍が勝利を収めた戦い
河越夜戦の2年後の室町時代の天文17年(1548)の創建
後北条氏の川越城代になった大道寺駿河守政繁が建立した
川越の街の賑わいから 少し離れたこの辺り
静けさを産む時の流れが 新鮮であり 少し重く感じる

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蔵造りの街並み 札の辻 [めぐり逢い]

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さて 川越のメイン通り 蔵造りの街並みに来た
川越市役所前の道と蔵造りの街並みの道がクロスする交差点
蔵造りの街並み 中央通りの北に位置する札の辻である
札の辻は 川越城下町の中心として高札場(こうさつば)があった場所で
高札場とは幕府が決めた法度や掟書きなどを木の板(高札)に書き
人目を引くように高く掲げる場所で 全国的にも各地に残る
川越の札の辻ではフォトに在るように 大きな屋根付きの高札場が
交差点の真ん中に建てられていたという 札の辻は
川越駅から来ると 東(フォト左)に曲がれば「本丸御殿」
西(フォト右)に曲がれば「菓子屋横丁」
北(フォト手前)に進めば「川越夜戦跡の東明寺」がある

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青のEVボンネットバス [ブラボー]

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小江戸巡回バスには 青と赤の電気ボンネットバスと
銀色の箱型バス(通常のバス)があり いずれも「CO-EDO」
マークが目印だが 現在 EVボンネットバスは
システム調整のため 運休しているという
最近走っている観光用のボンネットバスは
市販のマイクロバスを改造し エンジンを車体後部から
前部に移設してボンネットを構築したもので
現在はEV車(電気自動車)の最新型へ置き換わっているという
このバスは 全長(7.54m) 全幅(2.36m) 全高(2.99m) 乗車定員も41人である

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太田道灌と山吹 [な~るほど]

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川越市役所に向かうと 川越城の西大手門跡に建てられた
川越市役所の前に立つのが 鷹狩りの装束で
山吹の枝を手に待つ太田道灌の像
太田道灌と山吹は以前 ブログでも紹介したが
“七重八重 花は咲けども山吹の 実の一つだに無きぞ悲しき”
狩りに出た道灌が 突然の雨に見舞われ 農家で蓑(みの)の
借用を申し出たところ 若い娘はうつむいたまま
山吹の一枝を差し出すのみであったという
「蓑」と「実の」を懸け 貧しい家で蓑一つも無いことを山吹に例えた話
享徳3年(1455)の享徳の乱で 足利成氏と戦うのに備え
太田道灌が江戸城とともに築いたのが川越城(旧名は河越城)である

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小江戸巡回バス [ブラボー]

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小江戸 川越を巡る小江戸巡回バスである
このバスは青色に塗装されているが もう一台赤色の
小江戸巡回バスがあり 川越駅西口発着で 蔵の街 氷川神社
喜多院 菓子屋横丁などの川越の観光名所を走る路線バス
バスは この歴史ある川越の街並みに合わせたクラッシックな
昔懐かしいボンネットバスで どのバス停からも
観光名所へは徒歩1分以内で 川越散策には大変便利なバス
また「1日フリー乗車券」があり 乗車券を小江戸協賛店で
提示すると お食事・お土産・割引等のサービスがあるという

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小江戸 自動販売機 [めぐり逢い]

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ブログでは まだ小江戸川越らしいフォトは
登場していないが 出逢ったのがこの自動販売機
小江戸川越を匂わす 和服の女性の後ろ姿のデザインに
振り向き どんな仕草 笑い顔なのかも分からないまま
シャッターを切った 珍しいのと 小江戸川越の
雰囲気を求めたものだが 温かみは感じられない
よく見ると 右と左で和服姿の女性の大きさが違うが
このような個性的なデザインの自販機は 装飾シートという
専用のラッピングシートに特殊印刷をして装飾している

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川越菓舗 道灌 [めぐり逢い]

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川越氷川神社から川越城 本丸御殿方面へもどり 川越市役所
札ノ辻方面へと向かうと直ぐにあるのが このお店 川越菓舗・道灌
創業は大正10年 川越ならではの菓子「丁稚芋」「道灌紋中」
「道灌まんじゅう」「おさつパイ」「芋クリームどら焼き」などがある
菓子には興味は無かったが 道灌の文字の響きと
この店頭前に立っている大きな兎の置物に誘われたたが
先を急ぐために 立ち寄りはしなかったのだが
川越名物 サツマイモのお菓子の名前が目立つ

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「八里半」と「十三里」 [な~るほど]

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サツマイモの名産地である川越 江戸に焼芋屋が出現したのは
寛政5(1793)年頃 御家人であったと言われる山田桂翁(やまだけいおう)が
江戸の様子をまとめた「宝暦現来集(ほうれきげんらいしゅう)」には
芋を焼て売事 寛政五年の冬 本郷四丁目番屋にて
初て八里半と云ふ行燈を出し 焼きいも売始けり と フォトは
看板に「八里半」とあり 「栗(九里)に近い味」という意味を表している
これは八里半だが 栗よりうまい十三里という言葉が在る
「十三里」は「焼きいもが焼き栗の味を上回るほどおいしい」という意味で
「栗(九里)より(四里)うまい十三里」 つまり「九里+四里=十三里」
という洒落が江戸っ子にうけて評判となり 焼芋屋はますます繁盛する
なお「十三里」には 江戸時代のサツマイモの名産地であった川越まで
江戸・日本橋から13里(=約52㎞)あったからという説もある

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川越と新河岸川 [な~るほど]

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江戸時代は 江戸と川越とを結ぶ舟運ルートで
客を乗せる早舟は 川越夜舟とも呼ばれ 川越城下を
午後3時に発ち 一晩かかって翌朝8時に千住へ 昼前には
花川戸へ着いたという 物資の輸送としては並舟と飛切(とびきり)があり
並舟は川越ー江戸の往復を7〜8日で行った不定期船
飛切は 今日下って翌日上るという特急であり
船は喫水が浅い平田舟で 明治・大正期にはニブネと呼ばれ
積載量は70石から80石 長さ15mくらいのものが多かったという
明治時代に川越鉄道(西武新宿線)や川越馬車鉄道(のちの西武大宮線 廃止)
大正時代にはほぼルートを同じくする東上鉄道(東武東上本線)が
開業した結果 舟運は衰退していったという
鉄道の開業と河川舟運の衰退 どこも同じである

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新河岸川 氷川橋 [めぐり逢い]

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川越氷川神社裏の氷川橋である 春には川沿いは
約500mの桜並木に花が咲き誇り
水の流れがゆるやかなこの辺りはdiv>
花いかだが見事であるといい 「小江戸川越春の舟遊」では
和舟に乗ってお花見ができる風流なイベントなどもあり
満開の桜並木で出来たトンネルを 愉しむことが出来るという
小江戸に存在するのは 蔵と河川舟運であり ここでも
新河岸川の存在が 川越の発展に大きく関わっている

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神社裏手の新河岸川 [めぐり逢い]

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川越氷川神社の御神木 大欅(ケヤキ)の先の
神社裏手に流れるのは新河岸川である 伏流水や入間川からの
水田用水を水源とする赤間川が 川越市の八幡橋付近で
新河岸川と名前を変え 荒川と並行する
荒川が「外川」と呼ばれたのに対し 「内川」と呼ばれ
荒川の西岸沿いを流れ 東京都北区の岩淵水門先で隅田川に合流する
 
江戸時代に川越藩主松平信綱が 「九十九曲り」の
多数の屈曲を持たせ 流量を安定化させる改修工事を実施し
江戸と川越とを結ぶ舟運ルートとした これ以降 沿岸には
新たに川越五河岸をはじめとした河岸場が作られ
川の名も「新河岸川」と呼ばれるようになったという
舟運は 特に江戸時代末期から明治時代初めにかけて隆盛した

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伝説の光る川と人形流し [時空]

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川越氷川神社 小川である 境内地下には水脈があり
その御神水が流れる小川で この川に「人形(ひとがた)」とよばれる
和紙を流して 心身の穢れを祓う「人形流し」が行える
人形に三度息を吹きかけて 体に人形を撫で付けると
穢れが人形に移ると言われ
このしめ縄の下を通るように 浮かべ流すのがポイントであるという
川越氷川神社の由緒を記した古い文書には「光る川の伝説」が残り
今からおよそ千五百年前 入間川の川底が毎夜広い範囲で光り
不思議に思った人々が光の元を辿ったところ
現在川越氷川神社が鎮座している場所に着いたという
土地の長が身を清めてお告げを伺うと その光が氷川の神様の
霊光であると告げられたため ここに氷川神社が建てられたという
縁むすび風鈴の期間中 19時~21時 この小川に光を灯される

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境内に御神水と戌岩 [ブラボー]

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川越氷川神社の御神水は 境内地下に水脈があり そこから汲み上げている
フォト右の苔生した石囲いから溢れ 御神水は小川となって流れる
昔から御神水は心身を清め 邪気を祓うものとして尊ばれてきた
御神水はご自由に汲み取ることが出来るが 飲用する場合は
煮沸してからお召し上がり下さいとある
御神水の左側にに在るのが戌岩(いぬいわ) その姿が鼻先を
神前に向けた戌に似ていることからそう呼ばれる
片耳が垂れた戌の顔に見えて 撫でると安産になり
子宝に恵まれるといわれている 

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川越市護国神社 [な~るほど]

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こちらは境内社護国神社である 社殿前に鳥居 奥に護國神社
護国神社は 国家のために殉難した人の霊(英霊)を祀る神社
御祭神 西南の役以降の川越出身の英霊二千九百七十柱
明治14年7月12日 当時の岡田川越町長が内務省の特許を受け
招魂社として建立し 例祭日を西南の役出征の日に因み
4月12日と定め 昭和15年に川越市の公祭となり「護國神社」と改めた
昭和10年の拝殿改築遷座祭には 山本五十六中将(当時)が参列し
盛大に斉行された 国と郷土川越とを守るために清らかな命を捧げられた
英霊のもとには 今も多くの市民が集い慰霊の誠を捧げ続けている
護国神社は内務大臣が指定した府県社に相当する指定護国神社と
それ以外の村社に相当する指定外護国神社に分けられ
川越市護国神社は 氷川神社の社殿地域内に鎮座し
このような指定外護國神社は珍しいという

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御神木 二本の大欅  [時空]

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拝殿(本殿)の東側の「風鈴回廊」を越えて 裏手の
新河岸川の手前の境内に在るのが 川越氷川神社の御神木
大ケヤキである このように二本並んでそびえる欅は樹齢は約600年
この御神木の周囲には歩き易いように石の道が付いていて
双方の木を順に 8の字を描くように回ると
ご利益があるようである ご利益も倍なのであろうか
御神木を見上げれば この通りで ご神木の太さ
そしてその高さを越えるエネルギーに圧倒され
木々の葉に流れた 生まれた冷気が私を過ぎて行く
ご利益ではない 清められた思いが過ぎて行く

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山上憶良の歌碑 [めぐり逢い]

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川越氷川神社境内の人麿神社の右隣りに建っているのは
山上憶良の歌碑が建っている 万葉集の代表的歌人の
柿本人麻呂の神社と山上憶良の歌碑 なかなか興味深い
高さ1.7m 幅1mほどの自然石が使われ 碑表の上部に
「令反惑情歌碑」と篆(てん)書体で浮き彫りにされ
その下に序・長歌・反歌を併せ の400字からの文字が
原文で刻まれている
明治16年 川越の文学愛好家が建立したもの

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