キッコーマン煉瓦蔵 [めぐり逢い]
キッコーマン煉瓦蔵 建築年は昭和7年
この煉瓦蔵では もろみの熟成に1年もかける 昔ながらの
「杉桶仕込み」の醤油を製造していて 現在 中は見学できないが
杉桶が置いてある敷地内の庭園では
春は菜の花やツツジ 秋にはコスモスが蔵を彩るという
この煉瓦蔵の向かいには かつて名主を勤め 醤油醸造を
家業としていた旧高梨家である上花輪歴史館 があり
高梨家は文政12(1829)年に 天保9年(1838)年に茂木家が幕府御用醤油の
指定を受けた 野田の醤油の発展に深く係わりを持っている
醤油醸造 旧高梨辰巳蔵 [めぐり逢い]
江戸川堤沿いの桝田家住宅 その前の甲子講道標からすぐ左側に
見える煉瓦造りの建物が望める 緑に茂った木は欅である
この煉瓦造りの建物は キッコーマン㈱)野田工場製造第3部煉瓦蔵
かつて名主を勤め 醤油醸造を家業としていた高梨家の辰巳蔵
昭和7年(1932)に造られた もろみ熟成のためのレンガ蔵で
レンガの特長から 熟成温度や湿度調整に好適と言われている
この煉瓦蔵の前に 髙梨兵左衛門家 (髙梨本家)がある
野田 甲子講道標 [めぐり逢い]
桝田家住宅の土蔵の手前に建っているのは 甲子講道標である
甲子講(きのえねこう)とは 田の神としての信仰されていて
田植後の苗や収穫後の稲を供えたり 収穫の祝いを大黒上げなど
呼ぶこともあるという 鼠が大国主神を救ったという神話から
子(ね)の日が縁日とされ 甲子(きのえね)講と称して
大黒天を祀るのだという 風化していて 文字等は
確認できないが 野田の街の昔の賑わいを感じる
「こうのとりの里」 [めぐり逢い]
コウノトリが飛んだ 飛んだと言うよりは台から離れた
ぴょんと跳ねた感じであろうか ついでに羽根を広げた
この後 どのような展開になるのか愉しみであるが
シャッターには指を乗せたままである
野田市のコウノトリは 平成24年に多摩動物公園から
コウノトリ2羽を譲り受けたもので ここ飼育施設「こうのとりの里」で
飼育を開始し コウノトリの野生復帰を通じ
生態系ピラミッドの頂点に立った
コウノトリも生息できる豊かな自然環境と地域の経済・社会との
調和による「持続可能な地域づくり」を目指しているという
河岸問屋の桝田家 [めぐり逢い]
河岸問屋として栄えた桝田家住宅の主屋は、明治4年(1871)の建築で
住宅のみではなく 問屋の帳場 船宿の機能も持っていて
水害を防ぐ煉瓦塀・土蔵・不動尊祠などもあり 舟運交通の
数少ない遺構として貴重な文化遺産であるという
西側を流れる江戸川の堤防に面して建つ主屋は 桁行9間
梁間7間の木造2階一部平屋建で 寄棟造桟瓦葺とし
背面を葺き降ろしている 1階は梁間前半部が帳場や台所など
商用部分 後半部が私的な部屋で 2階には舟宿の客室3室がある
この煉瓦塀は 江戸川の洪水時 水の浸入を
防ぐ止水板を落とし込める仕掛けが施されている
御用蔵跡地隣の報恩寺 [めぐり逢い]
御用蔵跡地を見下ろす江戸川の堤を 野田橋の反対方向へ行くと
まもなく杜のなかへと下る道があり 吸い込まれるように
入って行くと在ったのがお寺である 「報恩寺」
報恩寺は 応永二年(1395)宥譽上人の開創と伝えられていて
下寺であった堤台地蔵尊の本尊の台座に その年代が
彫られてるのが根拠である もともと野田市堤台にあり
堤台八幡神社の別当として
江戸時代には末寺二十四ヶ寺を有する本寺として
徳川幕府より御朱印状五石を拝領していたといい
現在その御朱印状五通が 千葉県文書館に所蔵されているという
現在 本堂は修繕工事が行われ ブルーシートで覆われていた
飛ぶまで待とう コウノトリ [めぐり逢い]
その後 二羽は備え付けのテーブルの上に上がった
こうして 飛びそうな姿勢になるのだが 全く行動に移さない
こちらは次の瞬間のために シャッターに指を残したまま
じっと待っている態勢が続く これは何時ものことである
飛ばぬなら 飛ぶまで待とう コウノトリ
徳川家康の気持ちが 良く理解できるのである
寄り添う二羽 [めぐり逢い]
少し距離を置いていた二羽だが 一羽が近づいて行く
近づいたのは足環が黄色のオスのコウくんである
足環が赤色のメスのコウちゃんの背後に迫った時
コウちゃんが羽根を広げる仕草 待っていた瞬間か
シャッターを押す指に力が入り 反応して行くのが解る
次の瞬間 次の瞬間と待ち構えたが 羽は直ぐに
閉じられた 展開なしであり また我慢と集中の
時間が続いて行く 気が付くと三十分が経過している
このまま徒労に終わるのか 辛抱の時間は継続する
亀甲萬 御用蔵跡地 [めぐり逢い]
江戸川の堤沿いにあるキッコーマンフードテック 中野台工場
その隣に広い空き地が広がっている ここには野田駅近くの野田工場内に
建っていたお城の建物の「御用醤油醸造所」 その建物は
昭和14年(1939)に ここに建設されたもので 平成23年(2011)に
野田工場内に移設されたれたものである 御用醤油醸造所
ここはその御用蔵跡地で フォト下の左側 四阿(あずまや)が
その名残をとどめている 醤油の街 野田の歴史である
戴きますのポーズ [めぐり逢い]
飛ぶまでとは行かないが にわかに羽根を広げたものの
この囲われたゲージの空間の中では 飛ぶことは期待出来ないのか
そんな気持ちが沸き上がる一瞬でもあるが
羽根を広げた姿を想像できる一瞬でもあった
その少しの期待が 私の時間を引っ張って行く
この後 どうなるのかは 請うご期待である
上彼岸 戸邉五右衞門家 [めぐり逢い]
ヒゲタ醤油 野田工場の前を野田橋に向かい歩くと
野田橋の手前に在るのが 上彼岸 戸邉五右衞門家である
門の脇 道路に面して建つのは 昭和中期(1949)に建てられた米蔵
木造平屋建 瓦葺 建築面積33㎡で 主屋の東南に位置する
桁行5間 梁間2間の寄棟造妻入桟瓦葺の平屋建で
外壁はモルタル塗 内部は桁行で2分され 入口側は米や味噌などを
収蔵する蔵 背面側は養蚕部屋として使用されたという
歴史的な屋敷構えを構成する戸邉五右衞門家住宅
江戸時代から昭和初期まで 河岸問屋を営んでいた
平成19年に 国の登録有形文化財となっている
越谷野田線 野田橋 [めぐり逢い]
ヒゲタ醤油の前の道を西へ行くと江戸川があり 野田橋である
千葉県野田市と埼玉県松伏町 そして越谷市と結ぶ越谷野田線
現在の野田橋は3代目で 初代の木造橋1928年の開通
2代目はコンクリート製1943年開通ということで
現在の橋は 昭和39年(1964)に竣工 当初は国道16号線で
あったといい 現在は地方道 越谷野田線である
橋の構造は3径間ゲルバー鈑桁(左岸)+8径間鈑桁(右岸)
河口からの距離は39.3km 橋の長さ:395m 有効幅員:12.1m
野田の歴史を巡り歩く [めぐり逢い]
さて 愛宕駅で降りた私は この地図の北側の清水公園へと
徒歩にて隣の清水公園駅へと向かった そして金乗院を巡り
休館日であった旧花野井家住宅 清水八幡神社を巡った
愛宕駅の近くまで戻り 愛宕神社 西光院を巡り
キノエネ醤油の辺りを散策 そして再び野田市民会館を訪ね
今日 参拝可能な琴平神社へ赴き 須賀神社では三猿を確認
香取神社 ヒゲタ醬油を巡り 野田橋付近の江戸川堤へと
やって来た 菜の花が満開の季節であったが
未だ巡る場所が多数ある 野田市の街並みである
これから 地図の南側 下部を左から右へと巡って行く
第一印象 コウノトリ [めぐり逢い]
「こうのとりの里」のコウノトリ飼育施設であり ここでは
現在三羽が飼育されていて そのうちの二羽である
意識として出逢った初めてのコウノトリであり
その第一印象は 思っていたよりも大きい鳥で
ただ この時は未だ羽根を広げておらず 本当の意味での
大きさを知るのは もう少し後になるのだが
可愛いというよりも キツイ目つきであり
特別天然記念物のイメージからは少し外れている
そのイメージは これから変化してくるのだが 少し時間が掛かる
コウノトリ飼育施設 [めぐり逢い]
野田市のコウノトリの里は 東武野田線(アーバンパークライン)
梅郷駅西口より2Kmくらい離れた 利根川に近い所に在り
田園風景の向こう側は森という コウノトリには環境には良い場所
フォト下の菜の花と田園の向こうに建つのが コウノトリの里
野田市は江川地区という 利根運河沿いの林のなかに田んぼが広がる
緑豊かな地域に「こうのとりの里」という飼育施設を設置して
ヒナの飼育を始め 2015年から雛を野生にかえす取り組みをしている
手前右には電柱の上に設置された 今回二羽の雛を確認された
高さ約10mの人工巣台が見える
上花輪の香取神社 [めぐり逢い]
須賀神社の近くの下町交差点 本町通りとクロスするのが
野田市駅から野田橋へと行く通りだが 交差点を野田橋へと進むと
左手に大きな神社が現れる 上花輪にある香取神社である
室町時代の創立と伝えられ 享保12年(1727)に氏子の請により
正一位(しょういちい)を賜ったという
正一位とは位階及び神階のひとつで 諸王及び人臣における
位階・神社における神階の最高位に位し 従一位の上にあたる
初対面のコウリトリ [めぐり逢い]
これがその時に撮った卵を抱くコウノトリの姿である
未だ卵の数も確認されておらず 未公表の段階であったが
このように巣営をして 巣の中の卵を温めている様子であったが
ニュースでは 2羽の雛が確認されたという
親は「7歳の雄 ヤマト」と「2歳の雌 ひなた」で
ヤマトは「こうのとりの里」で生まれ ひなたは渡良瀬遊水地で生まれた
卵を抱えるこの鳥は「ひなた」と思われる
初めて観た時は 施設の造り物としての飾りもの
という感覚であったが どうもそうらしいとの
説明を受けたのが コウノトリとの出逢いになった
再び須賀神社猿田彦神 [めぐり逢い]
前回須賀神社に出逢った時に登場した須賀神社猿田彦神
(すかじんじゃさるたひこしん)である
その時に 猿田彦については触れているので今回は省略するが
造立の約2mの丸彫の この威容を誇る立像は ユニークで
ユーモラスさを持ち合わせているのだが その像の下の
台座内に三猿の透かし彫りがある 見えるであろうか
今日はそれを確認しに来たのである
茂木七郎右衛門家 [めぐり逢い]
こちらは(株)千秋社(旧野田商誘銀行)の右の道を行くと現れる
茂木七郎右衛門家住宅入口である
琴平神社が在るのは この大木の奥の方の敷地である
主屋は主屋棟 土間棟 座敷棟からなり 外壁を黒漆喰とした
重厚な趣で 座敷棟の各室も上質で往時の生活を伝えているという
書院は座敷飾り 透彫欄間 シャンデリアなど瀟洒な意匠を持ち
また新座敷は関西風の建築で 背面側を大壁や鉄板張として防火対策が
講じられているという 主屋背面には本蔵と新蔵が並び建つ
正門は堅牢で堅実な趣を呈する薬医門 煉瓦塀 書院北・東側土塀は
ともに4mを超える防犯・防火に備えた高塀
書院南側板塀は 書院の庭園に廻らす瀟洒な意匠の庭塀であるという
押切高敏 「燕子花フォト」 [めぐり逢い]
こちらはカキツバタである 江戸時代(18世紀)に描かれた
尾形光琳(おがたこうりん)筆の「燕子花図(かきつばたず)」
紙本金地着色 6曲1双 (各)縦151.2cm 横358.8cm
総金地の六曲一双屏風に 濃淡の群青と緑青により
鮮烈に描きだされた燕子花の群生であるが
未だ四月の末であるというのに 屏風に描かれるように
満開であり 祖のイメージでのワンショット
時が過ぎるのも早く感じるこの頃だが 輪を掛けて
植物が早く咲き出す時の流れに 戸惑うこの頃である
琴平神社 鳥居前 [めぐり逢い]
亀甲萬中央研究所のある敷地内の門から鳥居までは
真っ直ぐではないが敷石で結ばれている
前回 門越しに眺めて 10日の参拝開放日に必ず来よう
と思っていただけに 今回は期待と希望が叶えられ
愉しさは増してくる 散歩の醍醐味と言ってよい瞬間であり
未知のエリアから 現実の世界が広がって来る
結局のところ 自身の心の世界の巡りを愉しんでいるのだと思う
ここ 琴平神社の創建は寛政元年(1789) もう235年も鎮座しているのである
書院から庭へ 沓脱石 [めぐり逢い]
以前の記事で かつて書院から庭へと降りた踏み石であるという
その沓脱石のフォトが気になっていて 今回それを
確かめに行ったのだが 案の定 この大きな沓脱石を
前回の訪問時に撮っていなかった かつて書院から庭へと
降りるために置かれたこの沓脱石 その向こうには
大きな雪見灯篭のある枯池が かつての書院庭園である
ところで この庭石の据え方には「山天」と「平天」があるといい
山天は文字通り 石の角の部分を頂点にする据え方で
平天は平らな面を上に向け その面を水平にする据え方で
これは平天石である 書院は最上級の来客用の接待・宿泊に使用され
往時は 東久邇宮盛厚王殿下 三笠宮崇仁親王殿下など皇族が
ご宿泊された記念碑が前庭入口の前に建っている
キノエネ醤油 [めぐり逢い]
こちらは愛宕神社近くにあるキノエネ醤油である
野田には現在 キッコーマン ヒゲタ醬油の3つの
醤油醸造会社が在る ヒゲタ醤油は銚子で
野田に工場が在り キッコーマンと資本提携をしている
キノエネ醤油は 天保元年(1830)創業の歴史ある醸造元で
天保11年版の関東醤油番付に 白木平兵衞家として載っている
キノエネの社名は 陰陽道の五行十干と十二支
陰陽道の五行十干(甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸)と
十二支(子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥)を
組み合わせた60組のうち 一番最初の「甲(きのえ)子(ね)」を付けた
勝軍地蔵堂 [めぐり逢い]
こちらは 愛宕神社本殿の後方にある勝軍地蔵尊が祀られる勝軍地蔵堂
勝軍地蔵尊は神仏習合の世界観では 愛宕権現の本地仏とされる仏で
本地仏とは 本来の姿は仏教の仏 その仮の姿が神道の神
という意味で 明治維新の神仏分離では分離され ここにあった
延命地蔵堂に合祀されたが 明治45年に延命地蔵は横に移動させ
勝軍地蔵堂を建立した 堂はキッコーマンの茂木家が寄進したとされる
勝軍地蔵尊は 鎌倉時代 武家の間で信仰された
馬上甲冑をつけ 右手に錫杖 左手に如意宝珠を持った珍しいもので
戦勝を祈願した と伝えられる 明智光秀が本能寺に向かう際に
武運を祈願した京都の愛宕山 愛宕権現の本地仏 勝軍地蔵である
本殿と彫刻 説明板① [めぐり逢い]
下総野田愛宕神社の本殿と彫刻 <説明板 ①>
現在の本殿は 文政七年(1824)11年の歳月をかけて再現されたもので
入母屋造りの三間社 正面千鳥破風付 向背一間 銅瓦葺きで壁や柱の
至るところに精巧な彫刻か透かし彫リて描かれています 大工の棟梁は
武州川俣村の三邑吉左衛門正利と野田町の荒川喜兵衛正幸
彫物師は上州勢多群花輪の石原常八主信といわれています
江戸時代末期の社寺建築の特徴を 遺憾なく発揮された重要な建造物で
現在の本殿は文政七年(1824)に 11年の歳月をかけて
再現されたものだが このように壁や柱の至るところに
描かれた精巧な彫刻か透かし彫リが 現在でも観られる
腰羽目板には唐子の彫刻(「かごめかごめ」の由来の彫刻?)
や軒下の彫刻など 素晴らしい彫刻が観られる
愛宕神社本殿 [めぐり逢い]
愛宕神社本殿である 愛宕神社は 延長元年(923)に
火伏せの神である山城国の愛宕神社を勧請したと伝えられ
現在の社殿は文化10年(1813)に再起工し 文政7年(1824)に
再建されたとの記録があり 本殿内の壁画は瑤斎伊白栄原により描かれ
嘉永6年(1853)の落款があるという
社殿様式は 入母屋造の三間社で木造銅瓦葺の屋根で
軒は二軒繁垂木 向拝を設け 切石積の基壇上に建っている
凝った造りだが 建物自体の規模は小さく 三間四方 約5.4㎡である
清水八幡神社の大銀杏 [めぐり逢い]
清水八幡神社の鳥居の先にある本殿 その左側に立つのが
ひと際高い大銀杏である
推定樹齢は800年 樹高・30m 幹周・5.5m
立派な公孫樹である でも何故 神社やお寺に公孫樹の
ご神木が多いのは何故だと思って調べてみたら
「公孫樹」の木は水分を沢山含んでいて 難燃性の樹木であり
燃えにくく 防火の役目を果していることから火災が発生しない
願いが掛けれれている とのことである
また木が高く 遠くからでも建物が見つけられたことから
建物のシンボルとして「公孫樹」の木が植えられた理由
とも言われているという その思いが樹齢となって成長している
清水八幡神社 [めぐり逢い]
清水公園から下って来ると出逢ったのが清水八幡神社
創立年代は不詳だが 残されている青石塔婆等から 南北朝末期から
室町時代に村民の定住がなされ 信仰の対象として「八幡宮」を
鎮座したという説があり 「清水」の由来として
八幡大神を祀る神殿が 鎮座する場所より少し隔たりある窪地に
一夜にして清水が噴出して 村人たちは恐れをなし ここを
「御手洗」と唱えて 清水八幡大神と尊号して 地名にもなったという
旧花野井家住宅 [めぐり逢い]
清水公園の手前に在る 旧花野井家住宅の入口である/div>
花野井家は江戸幕府の軍馬などを育成する牧・小金牧で牧士として
管理を担っていた家で 昭和46年(1971)に野田市が寄贈を受けて
流山市前ヶ崎から当地に移築したもので
建築年代は17世紀後半と推定されている
ただ この日は水曜日で休館日(月~水曜日) 見学できず
残念な結果に終わった ただ以前行った小金宿訪問時に知った
幕府の軍馬育成のための牧場 小金牧が ここで繋がるとは
驚きでもあった 気ままな散歩の 運・不運の場所であった
不動堂 (清水開運不動尊) [めぐり逢い]
こちらは本堂の左方向に在る不動堂.である
山門前に掲げられていた看板の 4月15日 清水開運不動尊
大護摩修行 ご本尊の前において僧侶が様々な供物を焚き上げ
厄や災いを払い 仏の智慧の火をもって煩悩(苦の根元)を
焼きつくすことを意味する 護摩修行は天台密教の教理に
基づいた宗教儀式で 釈尊入滅約500年後に始まった
密教だけ存在する修法である 金乗院のお不動様は
室町期の力強い作風を示しているという
このお不動様は620年前(室町時代)より続いていて
身体健全・商売繁盛・厄除祈願や良縁成就など 人々の幸せを
願って祈る仏さまとして親しまれ このお堂は江戸時代初期のもの