昔咲いていた芙蓉の花 [昔(回想)]
芙蓉(フヨウ)の花である 7~10月初めにかけてピンクや白で
このように直径10~15cm程度の花をつける 朝咲いて
夕方にはしぼむ1日花で 長期間にわたって毎日次々と開花する
花弁は5枚で回旋し椀状に広がる 先端で円筒状に
散開するおしべは根元では筒状に癒合しており その中心部から
めしべが延び おしべの先よりもさらに突き出して5裂する
「芙蓉」はハスの美称でもあり 「木芙蓉」(もくふよう)とも呼ばれる
芙蓉の花は さだまさしの追伸のなかに登場する
あなたがとても無口になった秋に こわくて
私聞けませんでした あなたの指の白い包帯
上手に巻いてくれたのは誰でしょう
風に頼んでも無駄ですか 振り返るのは嫌いですか
どこにもある様なことですか 私 髪を切りました
青春の一ページ 想い出の芙蓉の花である
昔の日本酒のイメージ [昔(回想)]
馬場本店酒造での酒造りは 最高級の国産原料米
山田錦をはじめ 国産のもち米等使用 佐原南部洪積大地より
湧き出す地下水を使用して 酒造り・味醂を製造している
一般的に 山田錦を酒米に使用した時の日本酒は
大吟醸酒で華やかな吟醸香と スッキリとした味わいに優れ
「やや甘みが強く味わいがある」と評されている
馬場本店酒造では 古来より伝承の製法を守りながらも
時代に合わせたオリジナル新酒の創作にも取り組んでいる
最近の日本酒は美味しくて飲みやすい 二日酔いの
明日の自分を気にしながら 飲んでいた昔が懐かしく思える
東日本大震災 10年 [昔(回想)]
普段 我々が生活している世界は 人を中心に生きているようだが
地球のメカニズムの中に生かされている
今回の新型コロナウイルスに関しても
同じような側面を持ち 共存せざるを得ない状況を
改めて実感する 科学は共存するための手段であり
自然を越えるものではない ということに
気付かされて ワクチンといっても 自然との壁を築くもので
新型コロナウイルスが無くなるわけではなく
どこかでまた別の 同じような状況が繰り返される
長い震災当日が終る [昔(回想)]
緊張感がほぐれた一瞬であった 学生の携帯の充電も終わり
この辺りはお店にも電気が点いていて 結局学生は
父親と連絡を取りながらお店で待機するということに
私はUターン ほど近い自宅へ向った
結局のところ お店は満席で入れず 市役所の施設で待機
早朝の迎えで 無事に帰宅をしたという
地震の現状を知り 悪夢が始まるのはこの後のことであるが
震災当日の不安な そして長い一日は終わった
東日本大震災 深夜 [昔(回想)]
この体験をしたことの無いゾーンのなかでも 時は過ぎて行く
この時はまだ 震源地から遠く離れた東京での現象の渦中に在り
東日本大震災の実態など分かるはずは無い
車は少しも進まずに 結局時間だけが過ぎて行き午前零時
不安は増して行くなかで 無くなって行くのはエネルギー
携帯のバッテリー 車のガソリン そしてここまで
不安を乗り越えていた気力である そんな時私の携帯からの電話が
女子大生の母親に繋がり 父親がが車で東京まで迎えに向うという
東日本大震災 金曜日の深夜 街は未だ騒めいていた
非日常 帰宅困難者の列 [昔(回想)]
私の自宅を過ぎて 江戸川沿いに南下 京葉道路へと向かう
途中 何度も掛けた女子大生の携帯電話は繋がらず
やがて バッテリーは切れの状態が近づく
世界が一変したのは 京葉道路に入った時
歩道を歩いて帰る帰宅困難者の列 なかには
ヘルメットを被った人の姿 そして動かぬ車の列
この時 今待て体験したことの無い世界が広がり
映画のワンシーンであるかのように見えたが
時間と共に現実の中へ入って行き 時間は止まったようにも思えた
大きく揺れる工場見学 [昔(回想)]
初めて迎える大卒の新入社員の工場見学の序章は
こうして始まった 川に落ちている車を
想像しながらの運転は ひとつ またひとつと
橋桁を越える 綱渡りの運転であり 渡り切った時の
安堵感は 四人の生命を守り切った瞬間でもあった
夢であって欲しかったが 繋がらなかった携帯が鳴る メールである
とりあえず 橋の麓の道の駅の駐車場に入った
空は鉛色の雲であったと記憶している
もう先へ進む余力は無く 不安だけが住む空間の中に居た
半世紀通う信州 [昔(回想)]
浅間山麓の台地で [昔(回想)]
夏からの案内状 [昔(回想)]
それぞれの今この時 [昔(回想)]
全員集合のフォトである
年々に子供たちが多くなり
コートの脇で 時にはトンボを
追い掛けコートの中を駆け抜ける
アットホームなテニス大会である
そんな子供たちも 今は40歳前後
子供を育てている世代となった
我々が引退するのは当然であり
時は巡っている という思いである
今回 新型コロナウイルスの蔓延
対策による 外出自粛の要請という
ことで 前々からやろうと思っていた
アルバムのデジタル化を行った
思ったのは 公開している違いは
あるにしても やっていたことは
今のブログとあまり変わらない
ということである では何故
続けているのかと 疑問問だけが
残るのだが その答えには 考えてもなかなか行き着かないのである ただひとつ言える
のは このようなことが好きなことは間違いなさそうである 何れにしても 愉しかった
結果であり 学生の為にテニスコートを造って戴いたこの宿には 感謝無しには語れない
年々に子供たちが多くなり
コートの脇で 時にはトンボを
追い掛けコートの中を駆け抜ける
アットホームなテニス大会である
そんな子供たちも 今は40歳前後
子供を育てている世代となった
我々が引退するのは当然であり
時は巡っている という思いである
今回 新型コロナウイルスの蔓延
対策による 外出自粛の要請という
ことで 前々からやろうと思っていた
アルバムのデジタル化を行った
思ったのは 公開している違いは
あるにしても やっていたことは
今のブログとあまり変わらない
ということである では何故
続けているのかと 疑問問だけが
残るのだが その答えには 考えてもなかなか行き着かないのである ただひとつ言える
のは このようなことが好きなことは間違いなさそうである 何れにしても 愉しかった
結果であり 学生の為にテニスコートを造って戴いたこの宿には 感謝無しには語れない
信州の空に舞った日 [昔(回想)]
信州の風に出会う [昔(回想)]
時には ロングドライブで
蓼科牧場などへ行くこともある
この辺りは 湯の丸高原 或いは
ラグビー合宿のメッカ 菅平高原
など 清々しい気分を味わえ
また 信州の美味しいお蕎麦も
魅力である 観光地も上田城や
信州の鎌倉といわれる別所温泉など
このブログでも紹介しているように
歴史も古く 見るものは豊富である
信濃路 意味ありげな響きである
もっとも 若い頃は 歴史とか
観光とかには見向きもせず
テニスを中心として愉しく遊ぶこと
だけを心掛けていた 歴史に興味を
持ったのは もっと後のことである
地元に小さな手作りチーズの製造販売の
アトリエ・ド・フロマージュという
お店があり 女性軍はよく食べに行っていたが 今では 軽井沢や東京の青山にも
お店がある人気ブランドであるという 私は信州ではチーズケーキよりも蕎麦である
蓼科牧場などへ行くこともある
この辺りは 湯の丸高原 或いは
ラグビー合宿のメッカ 菅平高原
など 清々しい気分を味わえ
また 信州の美味しいお蕎麦も
魅力である 観光地も上田城や
信州の鎌倉といわれる別所温泉など
このブログでも紹介しているように
歴史も古く 見るものは豊富である
信濃路 意味ありげな響きである
もっとも 若い頃は 歴史とか
観光とかには見向きもせず
テニスを中心として愉しく遊ぶこと
だけを心掛けていた 歴史に興味を
持ったのは もっと後のことである
地元に小さな手作りチーズの製造販売の
アトリエ・ド・フロマージュという
お店があり 女性軍はよく食べに行っていたが 今では 軽井沢や東京の青山にも
お店がある人気ブランドであるという 私は信州ではチーズケーキよりも蕎麦である
永遠に続く夏の夜 [昔(回想)]
終わり無き二次宴会 [昔(回想)]
遊び仲間の大所帯 [昔(回想)]
自然に還る日々 [昔(回想)]
これが青春だ [昔(回想)]
この年 私は初めて3位入賞
楯を頂いた この合宿の参加者は
大学も そして会社も違う仲間が
集まり オリジナルTシャツや楯も
版下・印刷・アクリル成形・パッケージ
・ラッピングと それぞれを専門に
する仲間で制作され 大会を
盛り上げてくれる熱の入れようで
お互い 協力をして運営していた
一年に一度 ここ信州だけでしか
会えない仲間 何年ぶりに訪ねて
来た仲間との再会に湧く場が この
信州小諸のテニスコートである
三泊四日の真夏の熱いバカンスが
一年 また一年と刻まれて行く
この頃は トーナメントが開始
されて8年が経過 テニスへの情熱と
トーナメントへの意欲が いちばん強かった時代である 信州の台地にて育まれた青春
テニストーナメント [昔(回想)]
こちらはテニストーナメント
の表彰式である 優勝までは
五勝しないとたどりつけない
ミックスダブルス戦であり
ペアーは前夜にくじ引きで決める
抽選会会場は 毎回おおいに
盛りあがる 第一回大会の表彰式
で 優勝パートナーはキッスを
するという発案が慣例となり
行われていて ご覧の通りである
愛嬌であるが これがまた大会を
盛り上げるのである 一年は
この行事を終えると一段落である
この大会は20年位続いたと思うが
歳を重ねるにつれ もうカメラは
止めて という声が強く また
夏合宿に参加できないこともあり
残念だがフォトは1986年までしか残っていない また時代も変わって行き 参加者も減り
合宿の場所が代わったのも大きな要因である 現在 当時のテニスコートは影も形も無い
底なしのエネルギー [昔(回想)]
私がこのようなアルバムを
制作し出した切っ掛けは
中学の三年の時と記憶している
卒業式間近のフォトを アルバムに
制作しているときに 石碑の前で
撮ったフォトに 石碑の形に添って
はさみを入れたのが最初であるが
その後は四角いまま 貼り付けていた
本格的にこのようなスタイルに
なったのは テニストーナメントが
始まってからであり その理由は
フォトの数が多く 一頁になるべく
多くのフォトを貼りたい そして
もう一つは 四角だとスペースが
無く 書いたコメントが思うように
貼れないからである そして綺麗に
見せるために そのフォトに見合う
雑誌からの切り抜きを使用すること とにかく愉しさを表現したかったのだと思う
社会人になっても まだ時間的には余裕がある時代であり 何よりも若さがあった
避暑地のベースボール [昔(回想)]
青春時代の一部公開 [昔(回想)]
動き出す記憶の流れ [昔(回想)]
昔のアルバムをたどり 思うことは
自分の記憶の青春時代の出来事が
時代ごとに整理されて行くことである
記憶というものは 残念なことに
ほとんどの場合 正確な時間は含まず
曖昧な記憶として引き出しに納まる
私の青春時代は 夏のテニストーナメント
を頂点とした一年で それに関わる
仲間たちと 時が進んで行く つまり
春夏秋冬のように 毎年 同じ季節に
花が咲き出すのと同じで 今年は綺麗ね
とか あまり良くないわ との状況が
違う程度で ある季節を頂点として
一年のローテーションが巡るのであり
それが プライベートの時間のなかに
流れていたのである その年の出来事は
記憶は残るが 点として残るだけで
その点と点を繋げてくれるのがアルバムの存在である ひとつひとつの記憶が繋がって行き
流れるように動き始める青春の日々 全てに出逢いがあった さてこのフォト 鷹匠とあり
調べると 根津の蕎麦屋であった 文字に魅かれて撮って 眠れるブログのフォトとなった
青春時代をデジタル [昔(回想)]
フォトはブログの底に溜まり
色褪せて来たものを使用 掲載
漏れしたフォトたちである
新型コロナウイルスの蔓延に
より 何れやろうと思っていた
ことのひとつが アルバムの
デジタル化 今 一頁一ページ
写真を撮っているが これが
思っていたより大変な作業で
難しいのはアルバムを四角に
撮ること カバーフィルムの
反射をどう抑えるか である 何とか1500頁位 15冊を完了 あと8冊位で完了の運びに
新型コロナウイルスの蔓延無しには 実行しなかったであろうと思えるくらいである また
懐かしいフォトを 振り返る時間をもてたことは 改めて今までの自分が どれだけ多くの
人とかかわって過ごして来たかを実感すると共に 時の経過を印す 私の歴史物語である
愉しい時が青春時代 [昔(回想)]
外出禁止令のなかで [昔(回想)]
ボロ市で苦笑する [昔(回想)]
思わず苦笑いしたのが
このアグネス・ラムのポスター
グラビアアイドルの先駆者で
米国出身のモデル 1970年代
後半に日本で活躍していた
水着の似合う健康美でブームを
巻き起こした若いグラマーな
タレントで あどけない顔に
不釣り合いなグラマラスな身体
が妙にセクシーな女の子で
あった GOROとかnon-noの
雑誌を飾っていた 日焼けした
小麦色の肌が健康的な異邦人
「アグネス・ラムフィーバー」
が起きたのは1976~1977
バブル景気の少し前の時代
隣に並べられていた「ジュリー」こと沢田研二が このように若い時のポスター 世田谷
ボロ市の一角で 歴史の生き証人のように 語りだすエネルギーを感じられた瞬間だった