色彩奏でるシンフォニー [クリエィティブ]
黄葉木々のハーモニー第弐弾
まるでブラームスの 交響曲の楽譜のようである
規則正しい木の葉の並び その音色の輝き
重厚な木々のアンサンブルと 流れる音の色彩
哀愁を感じさせる 沈んだ美しさのなかの響き
流れるメロディーの美しさが ここなかに
表現されている シンフォニーを色彩に変えた姿であるように思える
中之島のオブジェ [クリエィティブ]
赤水門の奥に在ったこの
錆びついた建物 赤水門と共に
建てられ 今はその役目を終え
風化の一途をたどる歴史の象徴
的なものに思えたのであるが
なんと これは作品のオブジェ
この場所にピッタリハマり過ぎ
私は騙される格好になった
作品は 無垢の鉄棒を溶断し
一本づつ積み上げて製作された
もので 形あるものの消えゆく
時間 造られたものが風化され 「風になる」という遥かなことに思いを巡らせて制作された
「月を射る」と題されたもの 古代の人々が憧れたであろう天・月・川面に映った世界 果ての
ない世界観を想像してみたという 満月のときの明るい夜空に 水の上に 何か見えると
よいのですが との作者の想いである 『月を射る』 青野 正 <材質> リバーテン鋼
柴又⇔金町間ルート [クリエィティブ]
線路は全線複線で 折り返し
のため柴又駅・金町駅の終端部
はループ線になっていた
客車は1両6人乗りで64両あり
通常1人で押していたという
1907年(明治40年)には帝釈
人車軌道と社名を改めた
1909年(明治42年)成田山や
柴又帝釈天の参詣客輸送を
目的に京成電気軌道(現在の
京成電鉄)が設立された
京成電気軌道は帝釈天を通り金町への路線を計画していたが ルートが重なる帝釈人車軌道
は 軌道特許を京成電気軌道へ譲渡することに決め 1912年(明治45年)に譲渡した 同年
京成電気軌道は後に押上線・本線の一部となる押上~市川(現在の江戸川)間と 支線として
曲金(現在の京成高砂)~柴又間を開業させた 翌1913年(大正2年)には柴又~金町間の人車
の運行を終了し 単線電化で柴又~金町間を延伸して電車の運行を開始した 人力車物語
ヨコハマ ヨーヨー [クリエィティブ]
浦賀水道と房総半島 [クリエィティブ]
さて その横浜球場後方に
見えるグリーンベルト そして
朱と白で塗られたクレーン群
森は本牧山頂公園 三渓園
そして根岸森林公園と思われ
奥は横浜市が南本牧埠頭に
新たに整備した「MC-3
コンテナターミナル」である
遥か彼方には浦賀水道越しに
房総半島が見え 多分君津市
そして富津市辺りである
東京湾の入口に配置されたこのターミナルは 世界最大級のコンテナ船にも対応できる国内
唯一の大水深 高規格のコンテナターミナルで 国際コンテナ戦略港湾の中核的な施設で
総面積は約22・5ha 耐震強化された岸壁はコンテナターミナルとしては国内最大の水深
18m そして世界最大級となる全長約145mのコンテナクレーンが4基設置されている
時代は煉瓦造り [クリエィティブ]
おや・・リスが笑っている顔と
思ったら レンガ造りの高架橋
である この鉄道高架の建設は
1900 (明治33) 年に始まり
まず1909(明治42)年に浜松町
─烏森(現在の新橋)が開業し
翌年6月に烏森─有楽町
さらに同9月に有楽町─呉服橋
仮停車場が開業し 一応の完成
を見る なお浜松町から東京駅
までの全通は 東京駅開業の
1914(大正3)年である この場所は有楽町ー新橋間であるから 明治43年開業当時のもの
となる 明治維新により諸外国の産業を取り入れ始めた日本であったが 鉄道建設の始まり
迄には30年強を要している そうである 東京駅開業100年は2014年であり この100年
で 鉄道は蒸気機関車から新幹線 そしてリニアモーターカーへと その進化は継続する
レインボーブリッジ底部 [クリエィティブ]
芝浦側の主塔 ピア23から延びる
レインボーブリッジ底面である
中央をゆりかもめ その脇を一般道
右側の遊歩道がサウスルート 左側が
ノースルートである 底面を支えるのは
この芝浦側の主塔と台場側の主塔で
芝浦側と台場アンカーレッジから延びる
ワイヤーで この橋の本体を支えている
吊り橋の構造が良く解るフォトであろ
橋幅は49m ゆりかもめや一般道路
高速道路の重量にも耐える造りである
要するに アンカーから延びるワイヤーが
この主塔に乗り 強く引っ張ることで
橋のこの底部を持ち上げているのである
この様なフォトは やはり実際に歩いて
見ないと 写すのは難しが 新鮮なフォト
を収めることが出来る 散歩の醍醐味である
東京港旧防波堤 鳥の島 [クリエィティブ]
これは第三台場の先にあり
お台場海浜公園の自由の女神像
の前方の海に浮かぶ島 これは
東京港旧防波堤で 昭和初期の
土木遺産 別名「鳥の島」と
いわれる レインボーブリッジ
の下ををくぐり 東雲運河の
旧防波堤まで繋がっていた
1932年(昭和7年)に豊洲が誕生
1941年(昭和16年) 東京港開港
に合わせこの防波堤が造られた
1950年(昭和25年) 新豊洲が
誕生した (今の豊洲市場がある場所) この防波堤は晴海と豊洲の間を抜け ここまで続き
東京港の荒波を防いでいた 昔は陸続きであったが 今はお台場の入江のようになっている
場所に貯木場が設置され 船が入れるように2つの島に分けられたという 複数点在する緑
に覆われた無人島 その中でも中央に位置する全長約300メートルの細長い「鳥の島」である
街に微笑むゲーム館 [クリエィティブ]
宮崎駿監督のスタジオジブリ
制作の長編アニメーション映画
『ハウルの動く城』を思わせる
そんな風景である (話の内容
は全くわからないのであるが)
エッ ハリーポッター風だ ?
建物の正体はゲームセンター
「アミューズメントパーク
ウエアハウス草加店」である
街を走っていると 時々出会う
この手の風変わりな建物 最近
見慣れて来たが 当時目にした時は「なんなのこれ」と衝撃的に映っていた時代である
パチンコ屋の店先だ大きな怪獣が飾られている光景は見慣れていたが 視覚的にこれ程
インパクトのある建物も珍しい もちろん屋外派の私は全く興味がなく入った事は無い
昔はこのような新鮮なものに直ぐに反応してフォトに収めたが 最近では余り無い感じ
『あら「今日は」』の像 [クリエィティブ]
おや‥何処かで見たことがある
と 思っている人もいらっしゃると
思うが 場所は横浜高島屋玄関前
『あら「今日は」』と名ずけられた
ブロンズ像 工藤健氏の1985年の
作品で 横浜高島屋開店25周年記念
として設置されたものである
2人の親しい女性がここで偶然出会い
今日は何をしに横浜へ? とお喋りを
浮き浮きと横浜でのお買い物 あるいは
街での散歩を愉しむ そんなモダンで
お洒落な雰囲気を醸し出している
あらま 何言っているの 違うでしょ
『あら「今日は高島屋にお買い物」』
と これが本音のところでもある
ここは横浜駅西口であったと思うが
このブロンズ像 この暑さの中で
融け始めては? と思うくらいである
時を追うステンドグラス [クリエィティブ]
水の広場のオブジェ [クリエィティブ]
White Deer である
李王妃邸まえの「水の広場」には
大空を仰ぐ白い大きな鹿の彫刻が設置
されている 鹿は古来から「神使」や
「神獣」として アニミズムや神道など
信仰を支えるイメージとして 様々な
場面で登場し 親しまれて来た 近年
日本では鹿が増え続け 天敵である
日本狼の絶滅に加え 温暖化や限界集落
の増加 林業 リゾート開発なども
要因と言われている 人里に時々現れる
鹿は「迷い鹿」と呼ばれるそうである
この大きな白い鹿は インターネットに
現れた鹿の剥製を取り寄せ 全身を
3D スキャンして得たデータを元に制作
されたという 東京という大都会を彷徨い
長い冬を過ごしたせいか 角が大きく伸び
空を仰ぎ 春の兆しを感じていると
クラッシックハウス [クリエィティブ]
独特な手法の山門 [クリエィティブ]
山門である 一般の三門には
ない手法であり 建築の様式は
一部に唐様(禅宗様)の手法を
とり入れた和様でまとめていて
全体にはこの時代の様式を反映
している 特に蟇股に施された
竜 唐獅子 人物の彫刻が優れて
いる また 背面側に三間の
虹梁を用いて 飛鳥・天平時代
に中国から伝えられた建築様式
は 平安時代を通じて日本化し
柱を細く 天井を低めにした
穏やかな空間が好まれるように
なる 平安時代以降 日本化
した建築様式を和様と呼ぶ
平安時代後期になると 平清盛
の大輪田泊対外開港など中国
(宋)との交易が活発になった
ことで 再び中国の建築様式が
伝えられ まず入ってきたのは
東大寺再興の際に用いられた
様式で 大仏様と呼ぶ その後
禅僧が活発に往来し 中国の
寺院建築様式が伝えられた
これは禅宗寺院の仏堂に多く用いられ 禅宗様と呼ぶ フォトしたはその竜の彫刻である
生き生きと輝いた竜の目 そしてその姿は今にも動き出さんばかりの勢いを持っていた
葛飾北斎の創像力 [クリエィティブ]
天保13年(1842年)の秋
北斎83歳のとき初めて小布施
の鴻山(37歳)のもとを訪れる
このとき鴻山は北斎の卓越した
画才を見抜き 自宅に碧漪軒
というアトリエを建てて厚遇し
北斎に入門した 北斎はこの時
一年余りも鴻山邸に滞在した
鴻山は北斎を「先生」と呼び
北斎は鴻山のことを「旦那様」
と呼び合った 非常に恵まれた
環境の中で北斎は大作を残す
この祭屋台に描かれた絵で
天保15年(1844)85歳で東町祭
屋台天井絵「龍図」「鳳凰図」
翌弘化2年(1845)86歳のとき
上町祭屋台天井絵「男浪図」
「女浪図」を手がけている
そして弘化5年(1848年) 北斎
(89歳)は四度目の小布施を
訪れ 岩松院の天井絵を完成
させている 天井画は先日紹介したものである 北斎は人物画 風景画 歴史画 漫画
春画 妖怪画 百人一首 あらゆるジャンルに作品を残し しかもそれぞれが北斎の情念
のこもった一流の作品となった 長寿であった為引越し記録93回などビックリするような
エピソードも多いのだか その北斎が 日本の そして世界の人々に影響を与えることに
世界を揺るがす北斎 [クリエィティブ]
館内はもちろん撮影禁止で
その作品をお見せできないのが
残念である こちらは有名な
「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」
そもそも浮世絵とは 同じ絵柄
のものを多く摺ることができる
木版画による”浮世絵”と 一点
ものの肉筆画に大別される
基本的に”浮世絵”というと前者
の版画を指すことが多い
北斎のこの浮世絵は木版画で
この版画を完成させるまでには
「版下絵を描く」「版木を彫る」
「紙に摺る」の3つの作業となる
それぞれ絵師 彫師 摺師の
職人で分業し 一つの作品を
仕上げていく この浮世絵は
全部で4枚の版木を必要とし
主版1枚と3枚の色版が裏表
彫られており 全部で7面
使用し摺りあげる 葛飾北斎の
絵の大きな魅力のひとつに
北斎が多用した独特の青色
通称「北斎ブルー」がある
『冨嶽三十六景』は「青一色の10枚と 多色摺りの26枚の三十六景 ところが爆発的に
人気が出て もう10枚追加 すなわち『冨嶽三十六景』は全部で46枚あるという 版画は
版木がヤマザクラというやわらかい木材で 200枚くらい摺ると彫った線の角が丸くなって
しまい 初摺は200枚くらいしか摺れないという 世界を揺るがした北斎の富士山である
下北沢 本多劇場 [クリエィティブ]
歴史を灯す銅燈籠 [クリエィティブ]
本堂前に建つ銅燈籠である
上野の大猷院(たいゆういん)
(徳川家光)霊廟に奉納されたもので
大猷院霊廟は慶安5年(1652)上棟
享保5年(1720)に焼失した建物である
家光は慶安4年(1651年)4月に亡くなり
遺骸は「死後も東照大権現にお仕えする」
の遺言により上野寛永寺に移され
慶安5年(1652年)から承応2年(1653年)の
1年2ヶ月という短い期間で日光・輪王寺に
大猷院廟が造営され そこに埋葬された
「家光の上野霊廟」とは慶安4年(1651年)に
上野・寛永寺に最初に建立された
家光の大猷院霊廟をいう
その頃の寛永寺は 現在の上野公園の
2倍の面積の約30万5千坪の寺地を有し
その後 堂塔の整備に数十年をかけ
1698年(元禄11年)の5代将軍徳川綱吉公の時 今の上野公園大噴水のあたりに本堂の
間口45.5m 奥行42m 高さ32mという規模の根本中堂が完成 さらに清水観音堂
不忍池辯天堂 五重塔 開山堂 大仏殿などの伽藍が競い立ち 子院も各大名の寄進
により三十六坊を数え 徳川将軍家の菩提寺も兼ねて歴代将軍の霊廟も造営されて行った
驚きの絵コンテ [クリエィティブ]
黒沢監督が描いた絵コンテの
一部である 画家になることを
志した黒澤明監督は 自分で
絵コンテを描いていた 晩年の
作品「影武者」「まあだだよ」
「夢」「飛ぶ」「乱」そして
「八月の狂詩曲」の絵コンテ
以下は黒澤明監督の言葉である
「画コンテを描く時、随分、
いろんな事を考える。その場所
のセッティング、その場面に
出る人物の心理や感情、その
人達の動き。それを掴まえる
キャメラ・アングル、光線の
状態、衣裳や小道具、そう云う
いろんな事を具体的に
考えないと、その場面を画には
描けない。いや、それを考える
ために画コンテを描くのだ、と
云った方がいいかも知れない。
私は、そうやって、映画の
一つ一つの場面のイメージを
眼に見える様にかため、
ふくらませ、しっかり掴んで、
それから映画の撮影に臨む。
しかし、どうもこの作業は、
シナリオを書く時から、私の
頭の中で始まっているらしく、
書き損なった原稿用紙の裏に
いろんな画が描いてあるのを
時々見つけることがある」
絵コンテとは映画などの映像
作品において カットごとの
おおまかな構図や動きに加え セリフ カメラワーク 尺等をイラストとともに記入した
もので これをもとに演出の指示に従い映像が作られていくため 映像作品の設計図とも
いえるもの これは黒澤で戴いたものだが この絵コンテに偉大なスケールを感じている
一部である 画家になることを
志した黒澤明監督は 自分で
絵コンテを描いていた 晩年の
作品「影武者」「まあだだよ」
「夢」「飛ぶ」「乱」そして
「八月の狂詩曲」の絵コンテ
以下は黒澤明監督の言葉である
「画コンテを描く時、随分、
いろんな事を考える。その場所
のセッティング、その場面に
出る人物の心理や感情、その
人達の動き。それを掴まえる
キャメラ・アングル、光線の
状態、衣裳や小道具、そう云う
いろんな事を具体的に
考えないと、その場面を画には
描けない。いや、それを考える
ために画コンテを描くのだ、と
云った方がいいかも知れない。
私は、そうやって、映画の
一つ一つの場面のイメージを
眼に見える様にかため、
ふくらませ、しっかり掴んで、
それから映画の撮影に臨む。
しかし、どうもこの作業は、
シナリオを書く時から、私の
頭の中で始まっているらしく、
書き損なった原稿用紙の裏に
いろんな画が描いてあるのを
時々見つけることがある」
絵コンテとは映画などの映像
作品において カットごとの
おおまかな構図や動きに加え セリフ カメラワーク 尺等をイラストとともに記入した
もので これをもとに演出の指示に従い映像が作られていくため 映像作品の設計図とも
いえるもの これは黒澤で戴いたものだが この絵コンテに偉大なスケールを感じている
近代化の象徴 [クリエィティブ]
帆船もこうして横から見ると
貴婦人の肋骨で その魅力も
半減である 肋骨から覗くのが
ランドマークタワーであり
このタワーの展望台 近いうちに
行ってみたいと思ってるのである
たぶん ここからの富士山の雄姿は
横浜の背景として美しく輝いている
そんなことを思うのである そして
東京湾 先日の東京湾をジェット船で
大島への途中 横浜沖を通過したが
東京湾から見れば 横浜ベイブリッジ
をゲートとしていて 横浜港はその
奥に位置する港なのである 横浜港は
開港から昭和の初めまで 貿易の
輸出品の多くが 生糸であり 生糸は
陸路や河川を使って横浜へ運ばれた
1909年には 日本は中国を抜いて 世界一の生糸輸出国となっている こうしてシルク
の街 横浜により日本の蚕糸業は日本の経済を支え 近代化に大きく寄与して行く また
横浜から日本の各地に外国文化が波及していったのである 近代化への旅立ちの街である
横浜で日本人形 [クリエィティブ]
人形アーティスト [クリエィティブ]
未体験ゾーンの舞台 [クリエィティブ]
クジラの背中と顔 [クリエィティブ]
横浜港のSKY Duck [クリエィティブ]
横浜港をゆったりと進むのは
水陸両用バス 水上を走るバス
で SKY Duck (スカイダック)
と呼ばれている このバスの
チケット売場はJR桜木町駅の
日本丸メモリアルパークと
横浜赤レンガパークにあり
出発30分ほど前から現地にて
買うことできるという バスは
約40人乗りで 前の方の座席は
スロープから海に飛び込む際に
スプラッシュを感じられる
ということである 横浜を
歩き尽くした人は 普段歩いて
馴染みのある街も 高い目線や
海上の低い位置から見ると
また全然違った景色として
横浜の街を楽しめるという
チケットは おとな 3,500円
小学生以下 1,700円 である
約70分の乗船コース 横浜を
街から海へ 海から街へと巡る
ツアーの高い安いは乗ってから
江戸の風物「月の松」 [クリエィティブ]
清水観音堂の「月の松」
東叡山寛永寺の清水観音堂
内に「月の松」がある
寛永8年(1631)に清水観音堂
は東叡山寛永寺の開山
慈眼大師天海大僧正により
建立された 比叡山延暦寺が
京都御所の鬼門を守護すると
伝えられ 天海大僧正は
寛永2年(1625)に江戸城の
鬼門を守護するため 寛永寺
を創建 比叡山になぞらえて上野の山を東叡山と称して数多くの堂舎を建立し そのひとつ
として清水観音堂は京都清水寺に倣って建立 江戸時代から庶民に親しまれる名所となった
特に境内に配された月の松は 江戸時代の浮世絵師歌川広重の「名所江戸百景」において
「上野清水堂不忍ノ池」「上野山内月のまつ」として描かれている この「月の松」は明治初期
の台風により被害を受けて永らく失われていたが 浮世絵にも描かれていた江戸の風景を
復活させるため 平成24年に復元されたものである 江戸っ子の風情に触れる一瞬である
真田邸室内空間 [クリエィティブ]
都会の明治時代 [クリエィティブ]
丸の内パークビルの全景
三菱一号館美術館と三菱一号館広場
(中庭)を同じ敷地に備えるビル
一号館美術館の赤レンガと調和する
茶色く 一部丸みを帯びた外観は
東京(丸の内・有楽町・大手町)エリア
でも一際目を引くオフィスビルであり
緑豊かな中庭では癒しの空間が広がる
日本初のオフィス街 丸の内は
一丁倫敦と言われ 明治時代には
この辺りは三菱が所有しており
三菱ヶ原と言われていたこの場所に
レンガ作りの三菱ビルが建ち始め
馬場先門通りの両脇にレンガ造りの
ビルが並んだ その町の様子がまるで
ロンドンのようであるとして何時しか
一丁倫敦と言われるようになったが
これらのビルは昭和までに全て取り壊されてしまった 丸の内周辺には東京駅をはじめ
当時を偲ばせる建物が再建 あるいは立て直され 皇居(江戸城)を中心とした大名屋敷から
明治維新による東京の街の変革を垣間見ることが出来る 来年は明治維新より150年である
明治と平成のコラボ [クリエィティブ]
東京国際フォーラムを東京駅側
から出て馬場先門へと進むと出会う
のが この近代的なビル (丸の内
パークビルディング)と煉瓦造りが
融合する 三菱一号館である
昨今 開発が盛んな東京駅の直ぐ側に
この様な建物の存在することが嬉しく
またこれがTOKYOの いや日本の
歴史と魂の姿であると思えるのである
この建物は 日本で活躍した明治の
建築家といえば 度々登場する
イギリス人建築家ジョサイア・コンドル
と日本の職人達が創り上げた空間
これを 当時の製造方法や素材まで
忠実に復元しものである この
クラシカルな空間には こだわりと
見どころが散りばめられていて
館内も観て廻れる 展覧会と共に
建物も楽しみながら あなたのお気に入りの場所を見つけてくださいとのことである
広角レンズの更なる構図の広がり 私はこのフォトに大変満足をしているのであ~る