SSブログ
クリエィティブ ブログトップ
前の30件 | -

色彩奏でるシンフォニー [クリエィティブ]

IMG_3322.JPG
黄葉木々のハーモニー第弐弾
まるでブラームスの 交響曲の楽譜のようである
規則正しい木の葉の並び その音色の輝き
重厚な木々のアンサンブルと 流れる音の色彩
哀愁を感じさせる 沈んだ美しさのなかの響き
流れるメロディーの美しさが ここなかに
表現されている シンフォニーを色彩に変えた姿であるように思える

nice!(0)  コメント(0) 

中之島のオブジェ [クリエィティブ]

IMG_1534.JPG
 赤水門の奥に在ったこの
錆びついた建物 赤水門と共に
建てられ 今はその役目を終え
風化の一途をたどる歴史の象徴
的なものに思えたのであるが
なんと これは作品のオブジェ
この場所にピッタリハマり過ぎ
私は騙される格好になった 
作品は 無垢の鉄棒を溶断し
一本づつ積み上げて製作された
もので 形あるものの消えゆく
時間 造られたものが風化され 「風になる」という遥かなことに思いを巡らせて制作された
「月を射る」と題されたもの 古代の人々が憧れたであろう天・月・川面に映った世界 果ての
ない世界観を想像してみたという 満月のときの明るい夜空に 水の上に 何か見えると
よいのですが との作者の想いである 『月を射る』 青野 正 <材質> リバーテン鋼
nice!(0)  コメント(0) 

柴又⇔金町間ルート [クリエィティブ]

柴又人力電車.jpg
 線路は全線複線で 折り返し
のため柴又駅・金町駅の終端部
はループ線になっていた 
客車は1両6人乗りで64両あり
通常1人で押していたという
1907年(明治40年)には帝釈
人車軌道と社名を改めた
1909年(明治42年)成田山や
柴又帝釈天の参詣客輸送を
目的に京成電気軌道(現在の
京成電鉄)が設立された
京成電気軌道は帝釈天を通り金町への路線を計画していたが ルートが重なる帝釈人車軌道
は 軌道特許を京成電気軌道へ譲渡することに決め 1912年(明治45年)に譲渡した 同年
京成電気軌道は後に押上線・本線の一部となる押上~市川(現在の江戸川)間と 支線として
曲金(現在の京成高砂)~柴又間を開業させた 翌1913年(大正2年)には柴又~金町間の人車
の運行を終了し 単線電化で柴又~金町間を延伸して電車の運行を開始した 人力車物語
nice!(0)  コメント(0) 

ヨコハマ ヨーヨー [クリエィティブ]

IMG_0089.JPG
 表に出ると そうこれである
ジェットコースターの風を切る
イメージが強く印象に残るが
「モクモク ワクワク ヨコハマ
ヨーヨー」というユニークな
作品は やはり風の通り道・
流れを意識し 「たなびく雲」
をイメージして作られたもの
強いビル風が吹くのではないか
という予想がされ ビル風の
緩和という機能も備えている
夜間には作品の照明が 作品自体のライトアップを行うと同時に周囲を照らす照明ともなり
ダイナミックな空間を演出すると 作家名=最上壽之 設置場所=屋外(ヨーヨー広場)
材質=テンレス サイズ=H17m 制作年=1994(平成6)年 平成の風も間もなく終わる
nice!(0)  コメント(0) 

浦賀水道と房総半島 [クリエィティブ]

IMG_0066.JPG
 さて その横浜球場後方に
見えるグリーンベルト そして
朱と白で塗られたクレーン群
森は本牧山頂公園 三渓園
そして根岸森林公園と思われ
奥は横浜市が南本牧埠頭に
新たに整備した「MC-3
コンテナターミナル」である 
遥か彼方には浦賀水道越しに
房総半島が見え 多分君津市
そして富津市辺りである
東京湾の入口に配置されたこのターミナルは 世界最大級のコンテナ船にも対応できる国内
唯一の大水深 高規格のコンテナターミナルで 国際コンテナ戦略港湾の中核的な施設で
総面積は約22・5ha 耐震強化された岸壁はコンテナターミナルとしては国内最大の水深
18m そして世界最大級となる全長約145mのコンテナクレーンが4基設置されている
nice!(0)  コメント(0) 

時代は煉瓦造り [クリエィティブ]

IMG_1606.JPG
 おや・・リスが笑っている顔と
思ったら レンガ造りの高架橋
である この鉄道高架の建設は
1900 (明治33) 年に始まり 
まず1909(明治42)年に浜松町
─烏森(現在の新橋)が開業し
翌年6月に烏森─有楽町 
さらに同9月に有楽町─呉服橋
仮停車場が開業し 一応の完成
を見る なお浜松町から東京駅
までの全通は 東京駅開業の
1914(大正3)年である この場所は有楽町ー新橋間であるから 明治43年開業当時のもの
となる 明治維新により諸外国の産業を取り入れ始めた日本であったが 鉄道建設の始まり
迄には30年強を要している そうである 東京駅開業100年は2014年であり この100年
で 鉄道は蒸気機関車から新幹線 そしてリニアモーターカーへと その進化は継続する
nice!(0)  コメント(0) 

レインボーブリッジ底部 [クリエィティブ]

IMG_0063.JPG
 芝浦側の主塔 ピア23から延びる
レインボーブリッジ底面である
中央をゆりかもめ その脇を一般道
右側の遊歩道がサウスルート 左側が
ノースルートである 底面を支えるのは
この芝浦側の主塔と台場側の主塔で
芝浦側と台場アンカーレッジから延びる
ワイヤーで この橋の本体を支えている
吊り橋の構造が良く解るフォトであろ
橋幅は49m ゆりかもめや一般道路
高速道路の重量にも耐える造りである
要するに アンカーから延びるワイヤーが
この主塔に乗り 強く引っ張ることで
橋のこの底部を持ち上げているのである
この様なフォトは やはり実際に歩いて
見ないと 写すのは難しが 新鮮なフォト
を収めることが出来る 散歩の醍醐味である
nice!(0)  コメント(0) 

東京港旧防波堤 鳥の島 [クリエィティブ]

IMG_1771.JPG
 これは第三台場の先にあり
お台場海浜公園の自由の女神像
の前方の海に浮かぶ島 これは
東京港旧防波堤で 昭和初期の
土木遺産 別名「鳥の島」と
いわれる レインボーブリッジ
の下ををくぐり 東雲運河の
旧防波堤まで繋がっていた
1932年(昭和7年)に豊洲が誕生
1941年(昭和16年) 東京港開港
に合わせこの防波堤が造られた
1950年(昭和25年) 新豊洲が
誕生した (今の豊洲市場がある場所) この防波堤は晴海と豊洲の間を抜け ここまで続き
東京港の荒波を防いでいた 昔は陸続きであったが 今はお台場の入江のようになっている
場所に貯木場が設置され 船が入れるように2つの島に分けられたという 複数点在する緑
に覆われた無人島 その中でも中央に位置する全長約300メートルの細長い「鳥の島」である
nice!(0)  コメント(0) 

街に微笑むゲーム館 [クリエィティブ]

IMG_yyyy7.JPG
 宮崎駿監督のスタジオジブリ
制作の長編アニメーション映画
『ハウルの動く城』を思わせる
そんな風景である (話の内容
は全くわからないのであるが)
エッ ハリーポッター風だ ?
建物の正体はゲームセンター
「アミューズメントパーク
ウエアハウス草加店」である
街を走っていると 時々出会う
この手の風変わりな建物 最近
見慣れて来たが 当時目にした時は「なんなのこれ」と衝撃的に映っていた時代である
パチンコ屋の店先だ大きな怪獣が飾られている光景は見慣れていたが 視覚的にこれ程
インパクトのある建物も珍しい もちろん屋外派の私は全く興味がなく入った事は無い
昔はこのような新鮮なものに直ぐに反応してフォトに収めたが 最近では余り無い感じ

『あら「今日は」』の像 [クリエィティブ]

横浜高島屋正面.jpg
 おや‥何処かで見たことがある
と 思っている人もいらっしゃると
思うが 場所は横浜高島屋玄関前
『あら「今日は」』と名ずけられた
ブロンズ像 工藤健氏の1985年の
作品で 横浜高島屋開店25周年記念
として設置されたものである
2人の親しい女性がここで偶然出会い
今日は何をしに横浜へ? とお喋りを
浮き浮きと横浜でのお買い物 あるいは
街での散歩を愉しむ そんなモダンで
お洒落な雰囲気を醸し出している
あらま 何言っているの 違うでしょ
『あら「今日は高島屋にお買い物」』
と これが本音のところでもある
ここは横浜駅西口であったと思うが
このブロンズ像 この暑さの中で
融け始めては? と思うくらいである

時を追うステンドグラス [クリエィティブ]

IMG_4446.JPG
さて 場所は紀尾井町へと戻る
旧李王家邸の二階へと上がる階段の
ステンドグラスである 洋館の
落ち着いた雰囲気を保ちながら
二階へと上がる さり気ない そして
明るさを保つ工夫が素晴らしい
さて ここ元紀州藩上屋敷は現在の
紀尾井町周辺 赤坂プリンスホテル
から清水谷公園 紀尾井町ビルの
広大な敷地で 24,548坪とある 
徳川第9代将軍家重公は赤坂の紀州藩邸
(現在の赤坂迎賓館) で生まれ 氷川神社が
産土神とされた 氷川神社は江戸時代は
紀州藩の産土神として 崇敬され
八代将軍吉宗公が忠臣蔵浅野内匠頭夫人
遙泉院実家だった領地に建てられた
ここ紀尾井町は徳川家に所縁の深い場所である
nice!(0)  コメント(0) 

水の広場のオブジェ [クリエィティブ]

IMG_4437.JPG
 White Deer である
李王妃邸まえの「水の広場」には
大空を仰ぐ白い大きな鹿の彫刻が設置
されている 鹿は古来から「神使」や
「神獣」として アニミズムや神道など
信仰を支えるイメージとして 様々な
場面で登場し 親しまれて来た 近年
日本では鹿が増え続け 天敵である
日本狼の絶滅に加え 温暖化や限界集落
の増加 林業 リゾート開発なども
要因と言われている 人里に時々現れる
鹿は「迷い鹿」と呼ばれるそうである
この大きな白い鹿は インターネットに
現れた鹿の剥製を取り寄せ 全身を
3D スキャンして得たデータを元に制作
されたという 東京という大都会を彷徨い
長い冬を過ごしたせいか 角が大きく伸び
空を仰ぎ 春の兆しを感じていると 
nice!(0)  コメント(0) 

クラッシックハウス [クリエィティブ]

IMG_4420.JPG
 赤坂見附跡より北へ登る坂道
諏訪坂を上ると左に見えるのが
レトロな建物 「赤坂プリンス
クラシックハウス」である
この坂には元は諏訪氏の邸宅が
在って諏訪坂と呼ばれている
また このフォトの場所には
旧宮邸(元紀州藩邸)があったが
その表門の柱にダルマに似た
木目があったために 達磨門と
呼ばれ 門前の諏訪坂を達磨坂
とも呼んだといわれている この坂道は今 プリンス通りともいわれている さてこの建物
日本の伝統と外国の文化が交じり合う街 「紀尾井町」 品格が漂う歴史あるこの場所の
「ザ・プリンスギャラリー 東京紀尾井町」その裏側にあたる一角に建つこの建物は・・・・
nice!(0)  コメント(0) 

独特な手法の山門 [クリエィティブ]

IMG_0634_1.JPGIMG_0688_1.JPG
 山門である 一般の三門には
ない手法であり 建築の様式は
一部に唐様(禅宗様)の手法を
とり入れた和様でまとめていて
全体にはこの時代の様式を反映
している 特に蟇股に施された
竜 唐獅子 人物の彫刻が優れて
いる また 背面側に三間の
虹梁を用いて 飛鳥・天平時代
に中国から伝えられた建築様式
は 平安時代を通じて日本化し
柱を細く 天井を低めにした
穏やかな空間が好まれるように
なる 平安時代以降 日本化
した建築様式を和様と呼ぶ
平安時代後期になると 平清盛
の大輪田泊対外開港など中国
(宋)との交易が活発になった
ことで 再び中国の建築様式が
伝えられ まず入ってきたのは
東大寺再興の際に用いられた
様式で 大仏様と呼ぶ その後
禅僧が活発に往来し 中国の
寺院建築様式が伝えられた 
これは禅宗寺院の仏堂に多く用いられ 禅宗様と呼ぶ フォトしたはその竜の彫刻である
生き生きと輝いた竜の目 そしてその姿は今にも動き出さんばかりの勢いを持っていた 
nice!(0)  コメント(0) 

葛飾北斎の創像力 [クリエィティブ]

IMG_0490-1.jpg小布施 祭屋台.jpg
 天保13年(1842年)の秋
北斎83歳のとき初めて小布施
の鴻山(37歳)のもとを訪れる
このとき鴻山は北斎の卓越した
画才を見抜き 自宅に碧漪軒
というアトリエを建てて厚遇し
北斎に入門した 北斎はこの時
一年余りも鴻山邸に滞在した
鴻山は北斎を「先生」と呼び
北斎は鴻山のことを「旦那様」
と呼び合った 非常に恵まれた
環境の中で北斎は大作を残す
この祭屋台に描かれた絵で
天保15年(1844)85歳で東町祭
屋台天井絵「龍図」「鳳凰図」
翌弘化2年(1845)86歳のとき
上町祭屋台天井絵「男浪図」
「女浪図」を手がけている
そして弘化5年(1848年) 北斎
(89歳)は四度目の小布施を
訪れ 岩松院の天井絵を完成
させている 天井画は先日紹介したものである 北斎は人物画 風景画 歴史画 漫画
春画 妖怪画 百人一首 あらゆるジャンルに作品を残し しかもそれぞれが北斎の情念
のこもった一流の作品となった 長寿であった為引越し記録93回などビックリするような
エピソードも多いのだか その北斎が 日本の そして世界の人々に影響を与えることに
nice!(0)  コメント(0) 

世界を揺るがす北斎 [クリエィティブ]

IMG_0487-1.jpgふがく.jpg
 館内はもちろん撮影禁止で
その作品をお見せできないのが
残念である こちらは有名な
「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」
そもそも浮世絵とは 同じ絵柄
のものを多く摺ることができる
木版画による”浮世絵”と 一点
ものの肉筆画に大別される 
基本的に”浮世絵”というと前者
の版画を指すことが多い
北斎のこの浮世絵は木版画で
この版画を完成させるまでには
「版下絵を描く」「版木を彫る」
「紙に摺る」の3つの作業となる
それぞれ絵師 彫師 摺師の
職人で分業し 一つの作品を
仕上げていく この浮世絵は
全部で4枚の版木を必要とし
主版1枚と3枚の色版が裏表
彫られており 全部で7面
使用し摺りあげる 葛飾北斎の
絵の大きな魅力のひとつに
北斎が多用した独特の青色
通称「北斎ブルー」がある 
『冨嶽三十六景』は「青一色の10枚と 多色摺りの26枚の三十六景 ところが爆発的に
人気が出て もう10枚追加 すなわち『冨嶽三十六景』は全部で46枚あるという 版画は
版木がヤマザクラというやわらかい木材で 200枚くらい摺ると彫った線の角が丸くなって
しまい 初摺は200枚くらいしか摺れないという 世界を揺るがした北斎の富士山である
nice!(0)  コメント(0) 

下北沢 本多劇場 [クリエィティブ]

DSC_0006_1.JPG
 下北沢の本多劇場である
演劇専用の民営劇場で 客席は
1フロア 客席数は386席
1982年のこけら落しを飾った
作品は唐十郎作の『秘密の花園』
下北沢が「演劇の街」と呼ばれるのは
この劇場の存在が大きいという
当初から演劇専用劇場として
設計された劇場で 舞台や観客設備
などが最も充実していて 東京の
小劇場演劇の中心的存在であり
夢の遊眠社や第三舞台なども活動
していた当時は ここで上演を行った
その後も大人計画 ナイロン100℃
流山児★事務所といった小劇場界の
有名劇団の公演に多く利用されていると
エッ・・私・・ もちろん初めてである
nice!(0)  コメント(0) 

歴史を灯す銅燈籠 [クリエィティブ]

IMG_5389.JPG
 本堂前に建つ銅燈籠である
上野の大猷院(たいゆういん)
(徳川家光)霊廟に奉納されたもので
大猷院霊廟は慶安5年(1652)上棟
享保5年(1720)に焼失した建物である
家光は慶安4年(1651年)4月に亡くなり
遺骸は「死後も東照大権現にお仕えする」
の遺言により上野寛永寺に移され
慶安5年(1652年)から承応2年(1653年)の
1年2ヶ月という短い期間で日光・輪王寺に
大猷院廟が造営され そこに埋葬された
「家光の上野霊廟」とは慶安4年(1651年)に
上野・寛永寺に最初に建立された
家光の大猷院霊廟をいう
その頃の寛永寺は 現在の上野公園の
2倍の面積の約30万5千坪の寺地を有し
その後 堂塔の整備に数十年をかけ
1698年(元禄11年)の5代将軍徳川綱吉公の時 今の上野公園大噴水のあたりに本堂の
間口45.5m 奥行42m 高さ32mという規模の根本中堂が完成 さらに清水観音堂
不忍池辯天堂  五重塔 開山堂 大仏殿などの伽藍が競い立ち 子院も各大名の寄進
により三十六坊を数え 徳川将軍家の菩提寺も兼ねて歴代将軍の霊廟も造営されて行った
nice!(0)  コメント(0) 

驚きの絵コンテ [クリエィティブ]

IMG_4360.JPGIMG_4359.JPG 黒沢監督が描いた絵コンテの
一部である 画家になることを
志した黒澤明監督は 自分で
絵コンテを描いていた 晩年の
作品「影武者」「まあだだよ」
「夢」「飛ぶ」「乱」そして
「八月の狂詩曲」の絵コンテ
以下は黒澤明監督の言葉である
「画コンテを描く時、随分、
いろんな事を考える。その場所
のセッティング、その場面に
出る人物の心理や感情、その
人達の動き。それを掴まえる
キャメラ・アングル、光線の
状態、衣裳や小道具、そう云う
いろんな事を具体的に
考えないと、その場面を画には
描けない。いや、それを考える
ために画コンテを描くのだ、と
云った方がいいかも知れない。
私は、そうやって、映画の
一つ一つの場面のイメージを
眼に見える様にかため、
ふくらませ、しっかり掴んで、
それから映画の撮影に臨む。
しかし、どうもこの作業は、
シナリオを書く時から、私の
頭の中で始まっているらしく、
書き損なった原稿用紙の裏に
いろんな画が描いてあるのを
時々見つけることがある」

絵コンテとは映画などの映像
作品において カットごとの
おおまかな構図や動きに加え セリフ カメラワーク 尺等をイラストとともに記入した
もので これをもとに演出の指示に従い映像が作られていくため 映像作品の設計図とも
いえるもの これは黒澤で戴いたものだが この絵コンテに偉大なスケールを感じている
nice!(0)  コメント(0) 

近代化の象徴 [クリエィティブ]

IMG_3161.JPG
 帆船もこうして横から見ると
貴婦人の肋骨で その魅力も
半減である 肋骨から覗くのが
ランドマークタワーであり
このタワーの展望台 近いうちに
行ってみたいと思ってるのである
たぶん ここからの富士山の雄姿は
横浜の背景として美しく輝いている
そんなことを思うのである そして
東京湾 先日の東京湾をジェット船で
大島への途中 横浜沖を通過したが
東京湾から見れば 横浜ベイブリッジ
をゲートとしていて 横浜港はその
奥に位置する港なのである 横浜港は
開港から昭和の初めまで 貿易の
輸出品の多くが 生糸であり 生糸は
陸路や河川を使って横浜へ運ばれた
1909年には 日本は中国を抜いて 世界一の生糸輸出国となっている こうしてシルク
の街 横浜により日本の蚕糸業は日本の経済を支え 近代化に大きく寄与して行く また
横浜から日本の各地に外国文化が波及していったのである 近代化への旅立ちの街である
nice!(0)  コメント(0) 

横浜で日本人形 [クリエィティブ]

IMG_3073-1.jpgIMG_3073-2.jpg

















 小池緋扇は人形美術という伝統芸術に属する作家である
江戸の古布は今でも収集されているが それを実際に着用する現代人はそう多くない
人形のポーズに古典的な女性美を映している それは化粧をする姿や恋文を読む姿など
江戸時代の女性らしさの概念を表現している 時間や空間を越え 江戸の“粋”が人形の
姿を借りて今ここに蘇ってきました 言葉を持たない動くはずのない人形と 長い時代を
生き抜き 歳月の重みに磨きあげられた宝物のような古布とが いま一つになって新しい
命に生まれ変わり 切ないまでに生き生きと輝いて 見る人の心を魅了します
nice!(0)  コメント(0) 

人形アーティスト [クリエィティブ]

IMG_3047-1.jpg
 私は始めて見るのだが その
繊細な造りとその表情 そして
和の色彩に魅了されたひと時であった 

小池 緋扇(人形アーティスト)

昭和2年10月20日生まれ 
財団法人 人形美術協会 常任理事
・本部主任教授・人形美術展審査員
文化庁国民文化祭出店の人形指導・企画
人形師範育成・文化交流に活躍中
10歳の頃に初めて日本人形を作り
その後 幼稚園教諭を経て人形作家
となる その細やかな作品惹かれる
著名人ファンも多く また人形に
着付ける着物の柄や色合わせを
勉強しに訪れる着付け師も少なくない
東京人形学院(現 財団法人 人形美術協会)にて
50年以上に渡り 人形師範の育成にも携わる
nice!(0)  コメント(0) 

未体験ゾーンの舞台 [クリエィティブ]

IMG_3097.JPG
<展覧会タイトル>

小池 緋扇の

人形ワンダーランド

~人形一筋 90年 

人形制作の魔術師がつくる

五日間限りの

「人形たちの夢の国」が

横浜に舞い降りる~

この展覧会のタイトルである

会場では 私は人形たちに圧倒され その美しさにシャッターを押し続けたが その良さは

フォトを通じて 皆さんに感じて戴き 先生の個展への思いをそのまま載せることにする
nice!(0)  コメント(0) 

クジラの背中と顔 [クリエィティブ]

IMG_2995.JPG
 長い大桟橋の屋上 すなわち
クジラの背中を歩いて来ると
ダイヤモンドプリンセスの頭部
クジラの背中を歩いて来たから
というわけでは無いのだが
クジラが今にも口を開ける姿
そんなイメージである 
全長290mの船体 船首の右に
建つ みなとみらい21の 
横浜ランドマークタワーの高さ
296m なるほど 船を建てると
同じような高さになるのである 改めてこの豪華客船の大きさが解る ランドマークタワー
が海に浮いているのを思うと 本当に大丈夫なのと思えるが 想定外を除けば最新の科学で
管理されているのである もっとも最近はデータを改ざんする特技が流行っているそうだが
nice!(0)  コメント(0) 

横浜港のSKY Duck [クリエィティブ]

IMG_2988.JPGIMG_2997.jpg
 横浜港をゆったりと進むのは
水陸両用バス 水上を走るバス
で SKY Duck (スカイダック)
と呼ばれている このバスの
チケット売場はJR桜木町駅の
日本丸メモリアルパークと
横浜赤レンガパークにあり 
出発30分ほど前から現地にて
買うことできるという バスは
約40人乗りで 前の方の座席は
スロープから海に飛び込む際に
スプラッシュを感じられる
ということである 横浜を
歩き尽くした人は 普段歩いて
馴染みのある街も 高い目線や
海上の低い位置から見ると
また全然違った景色として
横浜の街を楽しめるという
チケットは おとな 3,500円
小学生以下 1,700円 である
約70分の乗船コース 横浜を
街から海へ 海から街へと巡る
ツアーの高い安いは乗ってから
nice!(0)  コメント(0) 

江戸の風物「月の松」 [クリエィティブ]

IMG_2965.JPG
 清水観音堂の「月の松」
東叡山寛永寺の清水観音堂
内に「月の松」がある 
寛永8年(1631)に清水観音堂
は東叡山寛永寺の開山
慈眼大師天海大僧正により
建立された 比叡山延暦寺が
京都御所の鬼門を守護すると
伝えられ 天海大僧正は
寛永2年(1625)に江戸城の
鬼門を守護するため 寛永寺
を創建 比叡山になぞらえて上野の山を東叡山と称して数多くの堂舎を建立し そのひとつ
として清水観音堂は京都清水寺に倣って建立 江戸時代から庶民に親しまれる名所となった
特に境内に配された月の松は 江戸時代の浮世絵師歌川広重の「名所江戸百景」において
「上野清水堂不忍ノ池」「上野山内月のまつ」として描かれている この「月の松」は明治初期
の台風により被害を受けて永らく失われていたが 浮世絵にも描かれていた江戸の風景を
復活させるため 平成24年に復元されたものである 江戸っ子の風情に触れる一瞬である
nice!(0)  コメント(0) 

真田邸室内空間 [クリエィティブ]

IMG_1877_1.JPGIMG_1886.JPG
 室内のフォト2枚である

フォト上は 「杉戸」を越えて

いない「表」の襖と フォト下

は主人の私的な部屋で 御殿の

奥に位置している ここからは

庭が眺められ 四季折々の景色

を愉しむ事が出来る この様に

部屋の機能(格式)によって

異なる柄の襖が使用されている

のが理解できる 当初は貞松院

のために この新御殿を建てた

湯殿や雪隠(せっちん=トイレ)

も備わっているのは当然である
nice!(0)  コメント(0) 

都会の明治時代 [クリエィティブ]

IMG_1707_1.JPG
 丸の内パークビルの全景
三菱一号館美術館と三菱一号館広場
(中庭)を同じ敷地に備えるビル
一号館美術館の赤レンガと調和する
茶色く 一部丸みを帯びた外観は
東京(丸の内・有楽町・大手町)エリア
でも一際目を引くオフィスビルであり
緑豊かな中庭では癒しの空間が広がる
日本初のオフィス街 丸の内は
一丁倫敦と言われ 明治時代には
この辺りは三菱が所有しており
三菱ヶ原と言われていたこの場所に
レンガ作りの三菱ビルが建ち始め
馬場先門通りの両脇にレンガ造りの
ビルが並んだ その町の様子がまるで
ロンドンのようであるとして何時しか
一丁倫敦と言われるようになったが
これらのビルは昭和までに全て取り壊されてしまった 丸の内周辺には東京駅をはじめ
当時を偲ばせる建物が再建 あるいは立て直され 皇居(江戸城)を中心とした大名屋敷から
明治維新による東京の街の変革を垣間見ることが出来る 来年は明治維新より150年である
nice!(0)  コメント(0) 

明治と平成のコラボ [クリエィティブ]

IMG_1699_1.JPG
 東京国際フォーラムを東京駅側
から出て馬場先門へと進むと出会う
のが この近代的なビル (丸の内
パークビルディング)と煉瓦造りが
融合する 三菱一号館である
昨今 開発が盛んな東京駅の直ぐ側に
この様な建物の存在することが嬉しく
またこれがTOKYOの いや日本の
歴史と魂の姿であると思えるのである 
この建物は 日本で活躍した明治の
建築家といえば 度々登場する
イギリス人建築家ジョサイア・コンドル
と日本の職人達が創り上げた空間
これを 当時の製造方法や素材まで
忠実に復元しものである この
クラシカルな空間には こだわりと
見どころが散りばめられていて 
館内も観て廻れる 展覧会と共に
建物も楽しみながら あなたのお気に入りの場所を見つけてくださいとのことである
広角レンズの更なる構図の広がり 私はこのフォトに大変満足をしているのであ~る
nice!(0)  コメント(0) 

江戸の庶民の涼 [クリエィティブ]

IMG_1635-1.jpg
 氷柱もそうであるが 真夏に
水の中で優雅に泳いでいる金魚
こちらの金魚も夏の風物詩で
あるが おや 少し様子が違う
のがお解りでであろうか(?)・・・
この金魚 ビニールに入って
いるが 実は中は水ではなく
空気である エッ・・エアー
実はこれは浅草の飴細工で
「アメシン」さんの工房に
飾られている 美しくほんもの
にそっくりな金魚 この他にも
イカやヘビ 猫などが装飾され
飾られている 江戸浅草らしい
大道芸として歩んだ飴細工
人の暮らし そして生活の中で
受け継がれて行く歴史 伝統
今日生まれたもので無く 受け伝えられてきたものであり東京の至る所で 観られる   
nice!(0)  コメント(0) 
前の30件 | - クリエィティブ ブログトップ