茂木家住宅エリアへ [めぐり逢い]
少し戻り キッコーマン本社の脇の道を入ると 左側に在るのが
この蔵造りの建物である なかは見ることは出来ない
この先には キッコーマン中央研究所が在り
このエリアはキッコーマンに 関連する建物が多く
この奥のエリアは 先の門が入口の 広大な茂木七郎右衛門家住宅
もっとも野田には この他にも茂木家住宅は何ヵ所か在るが
この蔵が 茂木家と関係あるのかは解らず
野田がこのような場所とも知らずに訪ね 驚きを持っての
ワクワク感のなかでの 散歩なのであり これまでに
四度訪ねることになり また出掛けようとも思っている
茂木七郎右衛門家住宅正門 [めぐり逢い]
野田商誘銀行の右の道を行くと現れる茂木七郎右衛門家住宅正門
野田の地で江戸時代から醤油醸造を営み 明治時代から大正時代にかけて
醤油醸造業の発展に大きな役割を果たした茂木七郎右衛門家の邸宅
邸内には主屋・書院・土蔵・門塀などが揃うほか 邸内神として祀られ
明治時代以降は 広く地域の信仰を集める琴平神社もあり
江戸時代後期から大正時代にかけての建物群が良好に保たれている
路地の奥に西面して構える間口4.3mの薬医門 切妻造桟瓦葺で
板扉を両開きとし 南側に潜戸を設ける 五平の本柱を
やや内寄りに立てて 冠木を渡し 梁を架けて出桁を受ける
旧家の表門に相応しい 堅牢なつくりで重厚な趣を呈している
野田商誘銀行 [な~るほど]
興風会館を出て 北へ向かうと在るのが以前掲載した
キッコーマン本社である その本社の先に在るのが
この建物 元株式会社野田商誘銀行(のだしょうゆうぎんこう)
この名称は 創立委員のほとんどが醤油醸造家であり 醤油の語呂に因み
「商誘」と名づけられた銀行で 建物は大正15年(1926)に完成した
現在は(株)千秋社の建物となっていて 中は見学出来ない
明治32年(1899)に茂木啓三郎が発起し 翌年 茂木を中心とした
野田の醤油醸造業者らによって発行株式5000株・資本金25万円で設立
各醤油製造家がそれぞれの醤油仕込み高に比例して資本金を払い込み
キッコーマンの創業家8家である高梨・茂木一族が3,715株 (74.3%) を
出資したことから 事実上の“キッコーマン醤油銀行”であった
野田にキッコーマン本社 [めぐり逢い]
野田は今まで散歩してきた通り お醤油のキッコーマンを
中心に発展し 現在でもレトロな街並みが残る
そのメイン通り 本町通りの興風会館の隣に建つのが
江戸時代初期の1600年代に始まり 世界的に有名な「キッコーマン」の
本社の建物 醤油造り始業の地 野田に在る
本社内には 1789年に当時の茂木家当主が讃岐の金刀比羅宮に参籠し
荒行の一つ 腕香の修行に耐えぬき 創業一族の茂木家 高梨家と
野田町民の安全繁栄を祈願し 敷地内に勧請された社
「琴平神社」が在るが 普段は参拝できず 毎月10日のみ
般参拝が出来るという 今回は参拝出来ずである
500席余りの大ホール [めぐり逢い]
興風会館 大ホールである 興風会とは 茂木・髙梨の一族が
野田の地で醤油醸造を 約300年に渡り継続発展し
事業を拡張できたことに感謝し 地域社会への還元
貢献を基盤として 昭和4年4月 昭和天皇ご即位の大典に際し
合名会社千秋社(現・株式会社千秋社)の寄付により設立
事業の拠点となるべく興風会館を竣工した
この大ホールは 当時は600席在ったが 現在は506隻
また 音が 響く様に工夫され 映画を見ることも出来たという
『民風作興』の扁額 [な~るほど]
大ホールの入口に陰られているのは 興風会のスローガンとも
言うべき『民風作興』の扁額である これは昭和5年に
興風会で講演を行った公爵の 一條實孝氏からその記念として
寄贈されたものと伝えられる 『民風作興』とは
古来受け継がれてきたこの国の人々のありようを意味する
言い換えれば わが国の伝統精神「作興(さっこう)」とは
奮い起こす あるいは盛んにするという意味で
健全なる国民精神を奮い起こすという意味である
その当時は ステージ上に飾られていたというが
大きなステージに比べて 扁額がやや小さく見えることから
大ホール入り口に移設されたという
興風会館「エントランス」 [ブラボー]
興風会館「エントランス」である 玄関の正面デザインは
左右対称のルネサンス様式 玄関にはこのように
荘厳で重厚なロマネスク様式の 半円アーチをしつらえている
地域の社会教育活動を推し進める拠点として
1929年に完成したこの建物の設計は 神田駿河台の
明治大学旧校舎も手掛けた大森茂氏 近世復興式の粋を集めた
この建築様式は 千葉県庁に次ぐ大建造物の威容をまとい
訪れる人に深い感銘を与え 当時の人々をも驚かせたという
野田繁栄の面影 [ブラボー]
建物を正面から見たときの外観(ファサード)は ルネッサンス風の
意匠を基調とし ロマネスク風アーチからなるゆったりとした
玄関部をはじめ 全体として威圧的にならない構成にまとめ上げている
設計は大森茂 施工戸田組 2階には講堂があり その空間構成や
階段廻りの意匠など 建築的に見るべきものがあるという
500人以上を収容できる大ホール 小講堂 ギャラリー
会議室は今も貸し出され 創業者が願う通り文化の拠点
館内の見学は 受付を済ませば自由に観ることが出来る
ロマネスク様式 興風会館 [めぐり逢い]
流山街道(本町通り)の下町交差点を北に向かうと
醤油醸造に関わる人々が 多く暮らす町場として 醸造関連施設の他
商店 学校 文化 娯楽施設が集まっていた場所で
直ぐ左手に在るのがこの建物 鉄筋コンクリート造り
地上4階 地下1階 ロマネスクを加味した近世復興式の
興風会館(こうふうかいかん) この洋風建築の建物は
キッコーマンの創業者らの手により建てられたものである
須賀神社 猿田彦人 [めぐり逢い]
須賀神社境内奥には この「須賀神社猿田彦人(さるたひこしん)」がある
猿田彦とは 日本神話に登場する神のひとりで 神武天皇の
曾祖父の瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が 高天原から日向にくだるときに
天の八衢に迎えて 高千穂峰まで道案内したという記紀神話の神で
天狗を思わせる大きな鼻と りっぱなあご髭をたくわえて
杖をついて雲に乗る威容を誇っている その後猿田彦は
庚申信仰や道祖神などとも結び付いていったという
像は文政6年(1823)造立の 約2mの丸彫の立像で
台座内に三猿の透かし彫りがある
猿田彦の丸彫像は 市内ではいくつか見ることができるが
この像はその中でも彫刻 形容 大きさともに優れているという
蔵造りの社殿 [な~るほど]
この社殿は 平成25年に改築されたというが 旧社殿は
明治時代後半に作られ 見掛けは漆喰塗りの土蔵造りだが
その構造は 近代的建築を取り入れた煉瓦蔵で 耐火性を高める為に
屋根の瓦の下まで煉瓦を敷き詰めた 先進的な工法が採用され
これに総欅造りの良材を用い 表情豊かな獅子や龍の彫刻を施した
広拝(礼拝する所)をくわえて社殿としたもので
現在のこの社殿は 傷みの少なかった旧社殿の広拝が改めて
据えられていて 明治期の野田の繁栄を今に伝えているという
前社殿の屋根瓦や煉瓦塀の一部は 野田市郷土博物館に保存されていると
社殿を裏側から見ると 蔵をそのまま神社社殿にしたのが
よく解り 明治期に付近で大きな火災が在り
燃えない社殿を作ったのだという
本庁通りの須賀神社 [めぐり逢い]
野田町駅跡の標柱を過ぎてしばらく行くと 交通量の多い交差点
クロスするのは この辺りのメイン通り 本庁通りである
本町通りの交差点にほど近い所に在るのが須賀神社である
須賀神社は 出雲国須賀の地(現在の島根県雲南市)に鎮座する
大神の分魂を 災いを祓う功徳があるものとして延享2年(1745)に
野田町上町に遷し その後 現在の地に遷し再興したものと伝わる
当初 町の人々から「市神」と呼ばれていたが 明治維新後に
「須賀神社」と改められた 現在の社殿は東日本大震災により
甚大な被害を受けたことを機に 平成25年に改築されたものだという
野田町駅跡・標柱 [めぐり逢い]
機関車のオブジェが連なる途中に建っていたのは
「野田町駅跡・有吉町通り」の標柱である この場所に駅があった
碑文にはこうある 明治44年(1911)野田・柏間に県営軽便鉄道が開通
そのころの野田町駅があったところである また、当時の千葉県知事
有吉忠一氏の功績をたたえて新設の駅前通りを有吉町と命名した と
鉄道建設にあたり 県では野田醤油醸造組合に県債として
20万円の出資を要請 これに応じて敷設のきっかけとなった
1067mmで建設された千葉県営軽便鉄道は柏~野田町間 14.7kmで開業
昭和4年(1929)に 現在の野田市駅の場所へ駅ができたのを機に
旅客業務は移ったが 貨物業務は昭和61年(1986)まで行われた
また 駅舎は昭和5年(1930)に川間駅に移築され
昭和46年(1971)まで現役で活躍していたという
機関車のオブジェ [めぐり逢い]
キッコーマン野田工場辺りからこの街燈が並ぶ辺りの
電柱には 機関車のオブジェが在る この街燈が並ぶこの先に
旧野田町駅があり 貨物を牽引するSLが往来していたという
野田市駅から このオブジェの続く道を行くと
野田町駅跡があるという 河川を利用した物資の輸送に活躍した高瀬舟も
大正期には鉄道輸送 自動車輸送の発達により 野田地方に
鉄道敷設の気運が台頭してきたのは 明治10年代のことであったが
約30年後の明治44年(1911)に 野田から柏間の鉄道が開通する
キッコーマン 御用蔵 [めぐり逢い]
「もの知りしょうゆ館」と同じく キッコーマン野田工場の敷地内にある
このお城のような「御用醤油醸造所」 通称「御用蔵」と呼ばれる
この施設は 宮内省(現宮内庁)に納める醤油の専用醸造所を
2011年ここに移築したもので 伝統的な醸造技術や 建設された
1939年当時の道具などが展示されていて 今もなお お同じ製法で
醤油が造り続けられている貴重な場所であるといい
原材料はすべて国産 杉の桶で熟成させている
移築にあたり 醤油を仕込む木桶 屋根の小屋組み 屋根瓦 石垣
門などは移築前のものを使用し 原形に近い形で再現してあるという
工場見学を予約すれば この御用蔵もご見学できるという
野田と日光東街道 [な~るほど]
江戸幕府を開いた徳川家 そして家康か遷座する日光東照宮
江戸と日光東照宮を結ぶ日光街道 実は日光と名が付く街道は
いくつか在り 日本橋から幸手を経由し 宇都宮で奥州街道を分岐する
本街道に対し 将軍の社参に使われた御成街道 勅使が使用した
例幣使街道 本街道の小山から近回りする壬生街道
そして野田を通る日光東街道 この道も日光街道の脇街道の一つで
「水戸街道(国道6号線) 現在南柏の向小金付近を起点に北上
野田の南部に位置する山崎から関宿を通り利根川を渡って境から
結城など10の宿を経て雀宮(宇都宮市)で日光街道と合流する
野田の繁栄には この日光東街道の存在が大きいという
関東での醤油造り [な~るほど]
さて もの知りしょうゆ館を訪ねるにしても 何故関東にお醤油が
醬油が関東地方 とくに千葉県で造られるようになったのは
江戸時代以降のことで 16 世紀末から銚子や房総半島東海岸には
摂津国西宮(現兵庫県西宮市)や紀伊国(現和歌山県)から
季節的な出漁民が訪れ 17世紀前期には出稼ぎだけでなく
現在の千葉県に定住して 大量にとれた鰯を干しあげる
干鰯場(ほしかば)を開く漁民も現れ 関西方面から移住してきた
人々の味覚にあわせて醬油が銚子周辺で造られるようになった
草分百姓であったヒゲタ醤油の創業者である田中玄蕃は
元和 2 年(1616)に 摂津国の商人から醬油醸造技術を教わり
紀伊国出身の ヤマサ醤油の創業者の浜口儀兵衛は 18 世紀初頭に
味噌や醬油の仕込みを始めた記録が 同家に残る帳簿から解る
お醤油のあれこれ [な~るほど]
ところで お醤油ってどのように製造するのか(?)
醤油は 大豆と小麦と塩水を原料とする発酵食品で
蒸した大豆と煎(い)った小麦に麹菌(こうじきん)をつけて発酵させ
これに塩水を加えて熟成させ 諸味(もろみ)とし 諸味を
撹拌(かくはん)しながら発酵を促し およそ1年後に仕込み桶から
舟揚げし 圧搾して絞り汁に火入れをすると 醬油が出来上がる
こうして作られた醬油は「濃い口醬油」といわれ 現在の醬油の主流
これに対して 小麦を煎らずに使い 塩分の濃度も高いのが
関西地方の「薄口醬油」 薄口醬油は色も薄く 料理の素材を
引き立てる調味料として 関西方面の料理に古くから使われ
さらに 小麦を全く使わないのが「溜醬油」で 濃い色と濃厚な
味を特徴とする溜醬油は 名古屋や三重県を中心に使われている
醤油醸造史的な施設 [な~るほど]
さて キッコーマンもの知りしょうゆ館とは
この工場内に在る見学施設 もとは野田醤油株式会社の
第17工場として 大正15年(1926)に竣工 広大な敷地に
最先端の設備が整えられ 生産量が飛躍的に高まっただけでなく
醸造工程の近代化のきっかけとなる醤油醸造史的にも重要な施設
また 敷地内の御用蔵(御用醤油醸造所)は 宮内省に納める醤油の
専用醸造所として 昭和14年(1939)に江戸川沿いに建てられた
蔵を移築したもので 現在でも杉桶で1年かけて
醗酵・熟成させる昔ながらの製法を守り続けている
「もの知りしょうゆ館」 [めぐり逢い]
野田市駅からキッコーマン野田工場の正門へ来ると
そこには「キッコーマンもの知りしょうゆ館」の文字が
案内板を読むと 工場見学ができるらしいが
工場見学は予約制であると言う 「もの知りしょうゆ館」は
日本を代表する調味料“しょうゆ”のすべてがわかるミュージアムで
「しょうゆができるまで」を見学しながら もろみ熟成の様子や
しょうゆの色・香りを体験できるという また「しょうゆの歴史」や
「しょうゆの知識」な の展示で “しょうゆ”について楽しく学べるという
次回は是非予約をして 行きたいものである
サイロに亀甲萬の文字 [ブラボー]
野田市駅から見えるキッコーマン野田工場 歩いて3分の所に在る
野田工場は連なった大きな原料サイロと キッコーマンマーク
とても印象的であり 今は世界のKikkoman 本拠地は
ここ野田市であり この街を代表とする企業である
この大きなサイロの中には 醤油の原料となる大豆や小麦が入り
サイロには六角形の「キッコーマン」のロゴマーク
「キッコー」は創業の地 下総国の一宮である香取神宮が鎮座する
「亀甲山」(かめがせやま)」に由来し 「マン」については
香取神宮の神宝は「三盛亀甲紋松鶴鏡」の亀甲紋様を図案化したとも
「亀は万歳の仙齢を有する」という故事から亀甲にちなんで
「萬」の文字を入れたといった伝承だが 定かではないが
世界にも通ずる 日本語のロゴマークが素晴らしい
明治44年 野田町駅開業 [めぐり逢い]
人間が押すトロッコひとつで 醤油樽70樽(2トン)を運んだという
明治44年(1911) 千葉県営鉄道野田線開通と同時に野田町駅
として開業 大正2年(1913)野田人力鉄道は ここ野田町駅まで延伸された
人力鉄道の県営鉄道野田線は その後 柏~船橋間を営業する
北総鉄道(現在の北総線とは別)に払い下げられ
野田から春日部・大宮方面の延伸に着手 1929年に総武鉄道に改称
その資金の多くは野田醤油(現在のキッコーマン)が
負担したという その後 総武鉄道は1944年に東武鉄道と合併して
東武野田線が誕生 高度成長期以降はトラック輸送が年々拡大し
1985年に野田線の貨物輸送は終了
野田市駅の醤油工場につながる引き込み線も撤去されたという
この2024年3月 野田市駅 新駅舎および新ホームの使用を開始
このように高架駅の2面4線化となり 2026年に連続立体交差事業完了予定
野田市駅 ホーム [めぐり逢い]
野田市への気ままな散歩は 初日の訪問を終えたが それから
3度訪問した これからまた散策が始まるが 実はこの野田市駅
今は「東武アーバンパークライン」となっているが‥‥
明治に入って醤油の需要が伸びると 水運での輸送を強化するため
1900年に醤油工場と江戸川の船着き場を結ぶ「野田人車鉄道」が開業
これは道路に敷いたレール上のトロッコを人間が押す人力鉄道
しかし次第に水運では輸送が追い付かなくなり 野田の醤油組合は
千葉県に醤油を輸送する鉄道の建設を要望 醤油組合の資金協力で
1911年に 野田と柏を結ぶ「千葉県営鉄道」を開業
これが東武野田線のルーツとなった
野田の気ままに散歩 [時空]
さて 野田市駅で下車しての気ままな散歩は 行き当たりばったりの
醤油醸造家 茂木佐平治家の旧宅と庭園であった 現在の
野田市民会館と野田市郷土博物館の訪問により 充実した
中身の濃い散歩となった この出会いを切っ掛けに これまで四度
野田市を訪問した 小さな街であるが この小さな街を
大きく支えた醤油醸造業 大都市・江戸への水運の利もあるが
1917年 野田の醤油醸造家一族が合同して設立したのが
「野田醤油株式会社」 各醸造家の秘伝の技と知恵を結集
その技術力と団結によって生まれたのが この野田市である
このベンガラ色の鮮やかな塀の野田市民会館を後にして
醤油の街 野田の散策は続く とりあえず野田市駅に戻る
総檜造りの金宝殿 [ブラボー]
茂木佐平治家の屋敷神として 稲荷神と龍神を祀っていた金宝殿
金宝殿(金寶殿) 茂木佐公園に鎮座する社殿は 大正3年(1914)
茂木佐平治邸に 稲荷と龍神を祀る金宝殿として建立
大正15年に 茂木佐公園を一般公開すると それ以降は
平成17年まで よろこび教会釈尊堂となっていたが
現在は旧称 金宝殿に復している
総檜造りで 十二支の彫刻が施されているが
内部見学は不可で 一時釈迦堂としても使用された
この社殿や 手前に在る手水舎には彫刻が多く施されている
茂木佐公園 銀杏の木 [気ままに散歩]
醸造業を営んだ茂木佐平治家の旧邸の野田市市民会館
道路を挟み その西側に在るのが茂木佐公園(野田児童遊園)
茂木佐平治家の所有地で 大正15年(1926)に公園「遊楽園」として
一般開放された 公園に立つ大きな公孫樹の木
その手前の大きな塔には 大正15年に建てられたもので
正面に「遊楽園」と刻まれている 側には茂木佐平治家の
屋敷神として 稲荷神と龍神を祀っていた堂宇
総欅造り大唐破風の建築物 金寳殿本社
そして手水舎があり 右横に鳥居が見える
通用門の西門 [気ままに散歩]
こちらは固く閉じられていて表門に対し 裏玄関への
出入りする西門である 塀はベンガラ塗り
ベンガラの語源は インドのベンガル地方より伝来したことから
そう呼ばれていて 土から取れる成分(酸化鉄)で紅殻
弁柄とも呼ばれ 日本の暮らしに古くから根付いている素材で
陶器や漆器 また防虫、防腐の機能性から家屋のベンガラ塗りとして
使用されてきた 格式の高い屋敷を感じさせる赤い顔料である
野田 醤油の造り始め [な~るほど]
江戸から3~4里以内のここ野田に造醬油屋が数カ所できて
ここから江戸問屋に出荷すると 運賃やその他 諸経費が安く
たいへん評判が良く 多くの醬油が江戸に積み送られ
また 新規の醬油屋がますます繁盛し これまで得意先であった
江戸問屋も 銚子からの醬油荷物を断ったり 値下げを要求したり
するようになってきたという それまで銚子から江戸までは
船で4~5日掛かっていたが 野田からは江戸川を使って
その日のうちに江戸へ荷を運べることから
18世紀後期から 野田の産業は醤油を中心として
急速に成長をとげて行き 19世紀中期には
髙梨兵左衛門家と茂木佐平治家の醤油が
幕府両丸(本丸・西丸)御用醤油にもなっていった
関東 野田の醤油造り [な~るほど]
醤油の街 野田市は 地形的には市の最北端部で利根川
江戸川が分流し 東を利根川 西を江戸川 南を利根運河により
三方を河川に囲まれ 原料の調達や製品の物流に便利な場所で
江戸時代中期頃より 原料の大豆は今の茨城県から 小麦は
群馬県や千葉県から 塩は千葉の行徳から調達 また江戸川の水質が
醤油醸造に適していた言われている 水運は原料の調達だけでなく
出来上がった醤油を江戸に運ぶのにも便利な場所であった
野田の醤油造りは 1558年~1570年 飯田市郎兵衛という人物により
始められたと言われ それまで大量に運び込まれていた
関西の醤油にとって代わり 江戸っ子の食文化を支えた
「天下一品」の四文字 [時空]
郷土博物館に展示されている一部 フォト上は 天保15年(1844)
後に紹介する愛宕神社に奉納された「醤油醸造絵馬」 奉納者は
野田の醤油醸造家茂木勇右衛門家で 作者はわからないが
醤油蔵の内部風景と 明るい蔵働き人が杉板に直筆されている
フォト下はキッコーマン掛看板 野田の醤油造りは
江戸川と利根川に挟まれた水運に恵まれた地から生まれた
こいくち醤油は江戸市民に愛され また幕府の御用命や
「最上醤油」に指定されるなど 江戸の食文化を支え
そば・天ぷら・うなぎの蒲焼き・にぎりずしなどの
江戸料理が生まれたという そして“最高品質を届け続ける”
という誓いを込め 「天下一品」の四文字を添えるようになったという