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しばられ地蔵尊 由来 [な~るほど]

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一年中荒縄でしばられている「しばられ地蔵」その由来が面白い


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さて 縄でしばりお地蔵様を裁きの場へと運ばせた大岡越前
市中の野次馬たちは「何事?」と 裁きの場へと流れ込んだところ
突然門が閉められ 大岡の殿様が「裁きの場に入るとは何事」と
野次馬たちに科料として 各自にサラシ一反を納めさせた その中の一つに
盗品が発見され 一気に大盗賊団をしとめることができた
「これにて一件落着~!」と それって「遠山の金さん」でしょう
大岡の殿様は 地蔵の霊験に感謝し立派な同社を建て 盛大な縄解き
供養を行って以来 この地蔵は「しばられ地蔵」と呼ばれ
盗難除け 足止め 厄除などと 願いを叶えてくれるお地蔵様として
信仰を集めた お願いをする時は まず荒縄で地蔵をしばり 願いが叶えば
荒縄を解くということが広まり 今日もしばられ続けているこのお地蔵様
今日 大晦日に縄解き供養が行われ 新年の一瞬だけ
石造のお地蔵さまが観られる もう直ぐ縄解き供養が始まる

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「しばられ地蔵尊」 [時空]

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石畳の参道を行くと 正面に安置されるのが この「しばられ地蔵尊」
参拝者の願いを お地蔵さんに荒縄で縛ることで
願いを叶えてくれるお地蔵さんで 一年中荒縄で縛られている
しばられ地蔵の由来は 徳川八代将軍吉宗の享保年間
(1716~1735)に遡る ある夏の昼下がり お江戸日本橋の
木綿大問屋の手代が 荷車に反物を満載して運んでいたところ
一休みのつもりで腰を下ろした 南蔵院の前でつい居眠りをしてしまう
目が覚めると なんと荷車ごと反物がない 手代はこの一大事を
時の名奉行 大岡の殿様に訴え出たが 大岡様は
「見逃した地蔵も同罪である」としてぐるぐるの縄でしばりお地蔵様を
裁きの場へと運ばせたのである エッ それで「しばられ地蔵」
いや それではとても風変わりなお地蔵さんで終わってしまう

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霊松・聖徳の松 [ブラボー]

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白御影の隅田川 石畳の業平橋 業平の舟石
その舟石後方から本堂側を望むと 左側に松の木がある
樹齢四百五十年といわれる老松 霊松・聖徳の松である
南蔵院の現在地には もと聖徳寺という天台宗の寺院があり
聖徳太子像を本尊として安置していて 常香炉の後ろ側に
在るのが聖徳太子堂である 聖徳寺は明治維新の神仏分離令による
廃仏毀釈運動によって荒廃し この霊松は南蔵院の太子堂に
安置する尊像をはじめ 多くの石仏とともに残されたものである

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南蔵院 歴史を語る境内 [な~るほど]

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南蔵院境内図である 山門を潜ると石畳の道が延びて
右手に手水舎 敷き詰められた白っぽい石のなかに
上部が平らな 少し大きな石が置いてある 実はこの光景
南蔵院の歴史を物語り 白御影の砂利は隅田川
石畳の参道は業平橋 右手の石は業平の舟石であるという
境内はその隅田川の様子を表したもの 参道を行くと
縛られ地蔵尊へと導かれるという

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南蔵院 結びだるま市 [時空]

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南蔵院の結びだるま市は 「しばられ地蔵」に由来し
厄除けから縁結びまで あらゆる願い事を結ぶ開運の
縁起もの「結びだるま」で 日本では年内最後の そして年明け
日本一早く始まる「だるま市」で 大晦日と元旦の二日間
江戸情緒あふれる「結びだるま市」を開催している
だるま市は 正式には「厄除元(やくよけがん)三大師大祭」といい
比叡山中興の祖「慈恵大師」の遺徳をたたえる縁日として
江戸中期頃に始まったといわれている
「日本三大だるま市」は「深大寺のだるま市」 「高崎だるま市」
そして静岡県富士市の「毘沙門天大祭だるま市」である

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業平山 南蔵院の歴史 [な~るほど]

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業平山 南蔵院 山門 新年を迎える準備が整っている
天台宗寺院の南蔵院は 業平山東泉寺と号し
権僧都林能法師(貞和4年 1348年寂)が在原業平が居住していたと
いわれる地(本所小梅町付近:現業平橋周辺)に創建したと
伝えられる寺で 元禄11年(1698)中之郷八軒町(墨田区吾妻橋3丁目)へ移転
大岡越前守のお裁きで しばられ地蔵で著名となる
関東大震災で罹災し 廃寺となっていた聖徳寺の地へ移転
南蔵院のこのすぐ裏手には 美しい水元公園が広がっている

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南葛SC(なんかつエスシー) [めぐり逢い]

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年の瀬の気ままな散歩で 業平山南蔵院へ行った時
真っ白な達磨が置いてあり そこには南葛FC
そして2022 JFL昇格の文字と 目が塗りつぶされている達磨
「目標達成」と言うことである 南葛SC(なんかつエスシー)は
2013年 漫画「キャプテン翼」の作者の 葛飾区出身の高橋陽一を
後援会会長とする Jリーグ加盟を目指すクラブの一つで
2022年現在 関東サッカーリーグ1部に参戦する
社会人サッカークラブで 2023年 葛飾区は総武本線の
新小岩駅近くにある敷地(6万8000㎡)を取得し 南葛SCの
検討していることが報じられている



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翼サッカー場が出来れば [ブラボー]

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四つ木駅は やり過ぎでしょうと思われるくらいの有様で
改札口が一つしかない駅で 営業をしながら
どのように描いたのか 心配になって来る感じである
階段だけでなく ホームの至る所にキャプテン翼
押上線を通らないスカイライナーまでキャプテン翼
それでも押上線(青砥~押上)内では快速以上が留まるのは
青砥と押上のみ キャプテン翼のサッカー場が出来れば
四つ木駅通過は 無くなるかも知れない

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四つ木ステーション [ブラボー]

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四つ木は 私が20代初めまで住んで居た街で また引っ越しても
通勤で毎日通っていた駅である 駅の側には荒川に架かり
さだまさしの「木下川橋」があり 懐かしく聴いたものである
あの頃の主役は東京タワーで 野球をした荒川のグランドから
富士山と共に良く見えたものであるが 今はイニエスタのサイン
そして澤のサインもある四つ木駅である 駅の改札口辺りは
昔は駅の下を流れるどぶ川であったが 今 昔を偲ぶものは
駅前に在る 針灸の「四ツ木の灸」だけである
昔の面影は消えて行く街であるが この様にして
新しい時代に乗っていることは 嬉しい気もするのである
私は葛飾と言えば 葛飾シンフォニーヒルズ モーツァルト像である

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寄り道の四つ木駅 [気ままに散歩]

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その押上(東京スカイツリー駅)に行く途中に在るのが
四つ木駅てである 以前 京成線押上線は都営地下鉄浅草線と
乗入れるまで 終着駅であり 都電やトロリーバスが走り
都営地下鉄浅草線の開業は昭和35年(1960) 押上駅 - 浅草橋駅間
今は葛飾と言えばフーテンの寅さんに始まり こち亀の
こちら葛飾区亀有公園前派出所 そして今はキャプテン翼であり
四つ木駅もこの様に変身をしたが 先日 成田空港アクセス列車
スカイライナーが キャプテン翼に装飾されていたのには
驚き 次回はフォトゲットを狙っている

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ゆっくりと静かに過ぎる [時空]

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こちらもスカイツリー内のクリスマスツリー
クリスマスツリーと言うよりは 装飾性の高い展示品のイメージ
年賀状書きを終え クリスマスが過ぎると
以前は ここからが師走というイメージで 緊張感
と言うよりも 新年を迎える準備があったが
今はクリスマスもお正月も 通過点に過ぎない
社会人の時は それぞれにイベントや集いが在ったが
今は生活のなかでの刺激的とは言わないが それに近いもの
つまりテニスやゴルフ 仲間との集まりが
主流になる毎日で 通過点に外ならないのである
新年が明ければ また違う感情が生まれるのかは別にしても
時はただ静かに流れて行く そんな日々である
 
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学友仲間との再会 [時空]

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東京スカイツリーに飾られたクリスマスツリーである
今年はコロナ感染が一区切りついて 学友とのランチで
ソラマチに何度か出掛けた その時のフォトである
学友は小学校 中学校 高校とよく会い 時にはゴルフなど
一緒にプレイするが 何時ものゴルフとは違い
和気あいあいで プレイを愉しむ なかには
卒業して以来という仲間もいるが 会話はスムーズで
久しぶり感が無いのが学友仲間である
いずれも仕事を卒業して 熱く語ることは
また そのように感じることも無い

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メリークリスマス [ブログ速報]

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2023 メリークリスマス
昨日の日曜日のクリスマス・イブは 友人宅でのパーティ
愉しいひと時 いや大分長い時間を過ごした
このサンタクロースは 東京スカイツリーのソラマチ
その入口に飾られてたもので サンタが手に持つのは
自由が丘のモンブラン モンブラン発祥のお店ということで
お店の名もモンブラン なかなか品の在るお洒落なケーキ
きままなフォト散歩で撮ったフォトでの
クリスマスカードでした

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川越氷川祭の山車行事 [な~るほど]

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川越まつり(川越氷川祭の山車行事)の山車は 計29台あり その一覧
山車の構造は 二層の鉾と人形からなる江戸型が発展したもので
四ツ車 又は三ツ車と台座(せいご台)の上に 二重の鉾を組み
上層に出る部分と人形は それぞれ迫りあげ式のエレベーター構造
川越まつりは 10月14日に氷川神社が執行する「例大祭」を根源とし
直後に行われる「神幸祭」や「山車行事(祭礼)」から成り立っている
「神幸祭」は 慶安元年(1648)に 当時の川越藩主・松平伊豆守信綱が
氷川神社に神輿・獅子頭・太鼓等を寄進し 祭礼を奨励したのが始まりという

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末広町 高砂の山車 [ブラボー]

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川越まつり会館に飾られている山車である
山車は 実際に川越まつりで曳かれる本物の山車2台を
定期的に入れ替えながら展示され 地元ゆかりの武将や
偉人の人形を屋根に頂き 高さは8m以上にもなるという
絢爛豪華な山車で有名な「川越まつり」に 山車が登場したのは
江戸の神田祭に憧れた商人が持ってきたもので 一番古い山車は
仲町のもので 文久2年(1862)に神田で作られたもの
展示されていたのは 末広町 高砂で昭和25年 4月に起工
昭和34年に完成したもの 川越まつり会館には他に
川越まつりの歴史資料や歴代ポスターなどが展示されている

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川越まつり お囃子 [な~るほど]

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入口には暖簾が掛かり お囃子の練習 九月と染め抜いてある
そして そろりそろりと あきの風がきこえはじめるころ
町のあちこちで お囃子の音が聞こえはじめる と続く
山車はこの後登場するが お囃子は 山車の前部には囃子台があり
その上では囃子連による囃子 舞を披露 舞1人 笛1人
小太鼓2人 大太鼓1人 鉦1人の編成で 市内では王蔵流
芝金杉流 堤崎流の3流派が多く見られる
いずれも江戸の囃子の流れを汲み 伝承されてきたものである

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川越 まつり会館 [めぐり逢い]

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川越 まつり会館である 江戸の情緒を今に残す小江戸の街
佐原 そして栃木 小江戸の共通点は 江戸との舟運で栄え
江戸情緒を残す蔵造りの町並みと 江戸天下祭の影響を受けた
山車祭りがあることであり 栃木では休館で観れなかったが
佐原 そしてここ川越でも見ることが出来た
佐原もそうであったが 会館には豪華に飾られた山車が
展示されていることである その山車は大きく豪華である

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定型化した土蔵造町家 [な~るほど]

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川越一番街の刃物屋さん 宮岡家住宅(町勘刃物店=まちかん)
火災における 類焼をまぬがれるための堅牢な造りの観音開き扉
雨水を落としやすくするための 勾配が施された重厚な屋根の傾斜
軒先を深く出す 堂々とした二重軒蛇腹の出桁造り
屋号は「町屋」 通称「まちかん」として親しまれ
明治時代における 土蔵造町家の定型化した意匠が備わり
一際目立つ存在となっている そんな土蔵造りが並ぶ街並み
寸勾配の屋根に乗る棟  屋根の頂部の左右の雲のような形の
ものは「影盛(かげもり)」といい 左官で作られ鬼板(鬼瓦)を包む
影盛にはさまれた棟を箱棟といい がんぶり瓦・いんろう
あるいは厚のし瓦などで構成されているという

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江戸時代から刃物専門店 [ブラボー]

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店蔵の内部には上屋筋に揚戸構 下屋筋に防火戸構が設けられて
いたことが痕跡からわかり かつては前土間をもつ座売り形式の
店だったことがわかる 店蔵背面中央部には戸口があり、観音開扉で
住居部分と火災時に隔絶できるようになっている
いわゆる店・住居分離型の形式である 店蔵の2階は床の間のある
10畳と6畳の2室からなっているが 1室だったものを大正12年
(1923)に座敷に改造したとのことである
江戸時代から続く刃物の専門店で 店内には包丁が並ぶ

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金物商の宮岡家住宅 [ビューティフル]

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こちらは「時の鐘」の前に在る「鐘つき通り」を
蔵造りの街並みの通りに出て来た所に建つ宮岡家住宅である
宮岡家は 天保の初めに宮岡正兵衛が金物商を営み 屋号を
「町勘(まちかん)」と号して 現在まで商いを続けている老舗商家
現在の建物は 間口が狭く 奥行が長い短冊状の敷地に
店蔵 住居部分 商品蔵 庭が奥に続く配置構成であるという
通りに面する店蔵が 敷地間口一杯に建てられて 少し窮屈な印象を
与えているが 隣接する建物に比べて1~2階とも階高が一段と
高くなっていて 両隣の建物を圧倒しているように見える

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「時の鐘」の再建には [な~るほど]

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この昭和初年の現存する多賀町の時の鐘 明治27年の再建で
棟梁は関根松五郎 釣鐘は矢沢四郎右衛門の鋳造であるという
スイス製のモバード(Movado)の時計をたよりに 正確に鐘をつくのが
何より自慢の岩内老人は 時計男の異名をとり 第二次世界大戦の
直前まで 町中に鐘を鳴り響かせていたといい 今では旧城下町と
蔵造り観光の象徴となっている この「時の鐘」の再建に際しては
川越商業銀行を創設した竹谷兼吉らの川越商人や 川越を選挙区とした
高田早苗らが寄付を集め 晩年を川越で過ごした渋沢栄一の
資金援助や 明治天皇からの下勅金 さらには原善三郎
茂木惣兵衛など 川越に所縁のある市外の実業家の献金があったという

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川越 時の鐘 [ブラボー]

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時の鐘の入口である この裏に階段があり
この上の時の鐘まで登って行き 川越の町民に
時を知らせていた 昔は人力で鐘を撞いていたが
現在は 機械式であるため 一般客は登ることはできないという
機械仕掛けの時の鐘に変わってしまったようである

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時の鐘敷地に薬師神社 [な~るほど]

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時の鐘が建つ奥に在るのが薬師神社である
この神社は 元は薬師堂で 元町市場の市神として常陸国から
元和年間(1615~1624)に勧請され その後 市場内が手狭となり
元和九年(1623) 城主酒井備後守が薬師堂を現在地へ遷座し
瑞光山医王院常蓮寺と称する天台宗の寺になったが 
神仏分離により常蓮寺は廃寺 薬師堂は薬師神社と改称し
無格社となる 祭神は大己貴命・少彦名命である
内陣には往時の本地仏として薬師如来像 薬師神社のご利益ては
五穀豊穣・家運隆昌・病気平癒などがあるが 眼病に著しい効果があるという

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時の鐘の在る多賀町 [な~るほど]

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時の鐘に上がる階段である 急な階段で手すりも無く
怖い感じもするが 川越っ子は 粋で鯔背(いなせ)
だったのかどうかは解らないが トントント~ンと
登って行ったのであろう この「時の鐘」の在る多賀町は
昔桶屋が開いたので箍町(たがまち)と呼んでいたが 音を通じて
多賀町と改めたという 桶師取立の町として城主に桶大工の役銭(雑税)を
毎年出して 諸役は免除の所であったと言われる
この鐘の奥に薬師と稲荷社があり 薬師は昔本町から移したという

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川越に江戸の時の鐘 [な~るほど]

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川越の「時の鐘」は大変古く 寛永4年(1627)から同11年(1634)の間に
川越城主酒井忠勝が 多賀町(現 幸町)の現在の場所に建てたものが
最初といわれ 江戸幕府が江戸市中に鐘を鳴らして
時を告げていたことにならい 時間を守ることに徹底した
当時の川越藩主・酒井忠勝が 川越城下で始めたもので
江戸城登城の時間がいつも正確だったことから
時計代わりにされていたと伝えられている
それにしても 3層構造の高さ約16mとは 驚きである

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川越のシンボル「時の鐘」 [めぐり逢い]

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さて 蔵造りの街並みの中ほどより 少し北に在る
川越のシンボル 「時の鐘」の登場である
コロナ過のなか 蔵造りの街並みの中央通り(昭和の街)の
人通りは少なかったが 高さ16.2m 木造三層構造の鐘楼の
「時の鐘」は 蔵造りの街に一際高くそびえ 初めての
出会いであった この鐘楼は江戸時代の1627年に建てられ
初代から数えて4代目で 明治の大火の翌年に完成したという
現在でも毎日4回(6時・12時・15時・18時)に自動で鐘を鳴らしている

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お隣の笛木醤油(金笛) [ブラボー]

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こちらは大沢家住宅の右隣に建つ 寛政元年(1789)創業
江戸時代より 川越藩の穀倉地帯として栄え 四方を川に囲まれ
豊かな自然に恵まれた川島の地で 醤油づくりを始めた
200年以上の伝統の味と技を持つ 笛木醤油(ふえきしょうゆ) 金笛
蔵造り 栃木を訪ねた時も老舗の味噌屋が在ったが
日本の食の味の源となる調味料は 必ず歴史のある街に
あるいは近郊に在り 人々の生活と直接結びついていた
交通(運搬)手段 あるいは保管(冷蔵)などの無い時代では
食文化と人々は 同じ生活圏のなかに在り 地方へ行っても
その街には 老舗の味噌屋さんが必ず存在するものである
このどっしりとした グレー色の蔵造りが 歴史を語っている

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土蔵の防火性を実証 [な~るほど]

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大沢家住宅の1階は 手前半間通りを土間とし 奥を床上部分とする
一室空間で 背面側中央に間口3間奥行半間の神棚を設け 2階へは東南隅の
箱階段で登った 1階の戸締まりは 庇との境に入った摺揚戸で行われ
背面は 観音開きの土扉が神棚の両脇に2箇所設けられ 火災の際には
住居部分と完全に分離できるようになっている 2階は5室からなり
棟通りで二つに分かれ 正面北側の14畳間には床の間と地袋付きの床脇が
備えられている 大沢家住宅は 明治大火後に毅然とした姿で
川越商人たちの目前に現出し 土蔵造建築の防火性を
実証させた町家であり 川越における土蔵造の町並みが誕生する
きっかけをつくった貴重な建築といえる 川越の蔵の街は ここから始まる

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塗家造りの町家 [な~るほど]

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大沢家住宅の建物は 切妻造桟瓦葺屋根の総二階で 前面に奥行4尺の
下屋庇(ひさし)が付く 軒は出桁で支えるが 明治大火後の店蔵と異なり
軒蛇腹はなく 2階正面の窓も土塗りの親子格子で構成されており
土蔵造というより 内部からは柱が見えるが 外部からは
柱や窓の木部が見えない 塗家造(ぬりやづくり)の町家といえる
建築当初は 庇正面だけではなく南面まで廻っていたが
現在は撤去されている 正面の庇は中央間が開放され
左右脇間が腰壁で 創建時は庇柱内側に防火戸を立てる構えであったという

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