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高梨兵左衛門本家 [ビューティフル]
キッコーマン煉瓦蔵の通りを隔て その前にある高梨兵左衛門本家
現在は上花輪歴史館として公開 その冠木門である
門は閉じられているが 開館は午前10時 まだ開館前である
冠木門(かぶきもん)とは 屋根がない木の戸のことで
支柱の上に横材を渡しただけのようなシンプルな形式の門
上世や中世の城門では多くがこの冠木門であったと 冠木とは
2本の支柱の上に横向きに掛ける木材のことであるという
シンプルな形式の門だが なかなか趣があり 貫禄がある
キッコーマン煉瓦蔵 [めぐり逢い]
キッコーマン煉瓦蔵 建築年は昭和7年
この煉瓦蔵では もろみの熟成に1年もかける 昔ながらの
「杉桶仕込み」の醤油を製造していて 現在 中は見学できないが
杉桶が置いてある敷地内の庭園では
春は菜の花やツツジ 秋にはコスモスが蔵を彩るという
この煉瓦蔵の向かいには かつて名主を勤め 醤油醸造を
家業としていた旧高梨家である上花輪歴史館 があり
高梨家は文政12(1829)年に 天保9年(1838)年に茂木家が幕府御用醤油の
指定を受けた 野田の醤油の発展に深く係わりを持っている
明日へ コウノトリの里 [自然]
さて 二羽の雛が孵ったと言う報道から 二週間が過ぎた
その後の経過は解らないが 子育てのコウノトリには
迷惑な話で じっと静かにしていただきたいと願っているに違いない
このブログも コウノトリを掲載して来たが 少し静かに
見守りたいと思い 元の一日二回の更新に戻すとする
少しの時間の経過の後に また観に行ってみたいと思っているので
経過はその時に載せたいと持っている
二羽の雛が 無事に成長することを祈る
杉材の仕込み樽 [な~るほど]
昭和7年築のキッコーマン煉瓦蔵 その内部には杉材の仕込み樽が
72本並べられているというが 大きな杉桶が置いてある
もう風化していて 崩れてはいるが 樽の大きさは伺える
使用される杉樽の大きさ 高さ2m 直径2.6m 1㍑がパックが
8300本分の醤油が可能だという レンガの蔵は仕込みの際に
温度 湿度を調節するのに最適で 発酵中の液体の
醪(もろみ)の熟成に使用する樽で 1年保管する煉瓦の蔵である
醪(もろみ)とは醤油麹に 食塩水を混ぜたものである
上花輪観音堂 [な~るほど]
欅並木の左側に在るのは この上花輪観音堂である
本尊の十一面観音像は毎年8月の盂蘭盆会の際に開帳されるという
特に馬持主たちによって信仰されてきたお堂であり 江戸時代
馬による醤油運搬は 醸造元の蔵から馬などを使って江戸川沿いの
河岸(船着場)へ運んで 高瀬船に積み替え輸送していた
輸送量は 馬1頭で醤油樽7樽 普通の高瀬船1隻で1,200樽で
明治時代になり 醤油の生産量増加などで荷馬車が使われたが
更なる輸送力増加として 工場から河岸までの道路などに軌道を敷設して
トロッコを人力で走らせる人車鉄道が明治33年(1900)に完成
トロッコ1両を2人1組で押し 70樽(馬10頭分)が運べたという
また2~3両を連結し 馬1頭で引っ張ることもあったが
大正時代後期には ほとんど馬車鉄道化していたという
コウノトリの羽根 [な~るほど]
長い時間待ったが その甲斐があり 満足のいくフォトを
撮ることが出来たが 思っていた以上に美しかった
そして大きかったのである
余りの言葉はいらないであると思う
風切羽・大雨覆は黒 0~1歳の幼鳥のみ 中雨覆の一部が黒
翼を閉じていると隠れて見えないが 尾羽は全て白
風切羽(かざきりばね)とは 鳥類の翼後方に整列している
一連の羽根で 大雨覆とは風切羽の基部を覆い
前方からの空気の流れをなめらかにしている 後列のものは大きく
大雨覆と呼んで区別するほか 上面のものを上雨覆
下面のものを下雨覆 前面を前縁雨覆などという
上花輪 欅(ケヤキ)並木 [ブラボー]
桝田家住宅 その前の甲子講道標を過ぎて道なりへ左に入ると
広がるのがこの空間である 新鮮な皐月とも思える
神聖な世界へと導いていくような光景である
この欅並木は この先の髙梨家が 街道沿いに植林したもので
江戸川まで続いている この辺りは昔 上花輪村と言われ
野田市上花輪として地名が残る
欅(ケヤキ)は野田市の木となっていて 市の花はツツジ
野田市の鳥はコウノトリではなく ひばりである
醤油醸造 旧高梨辰巳蔵 [めぐり逢い]
江戸川堤沿いの桝田家住宅 その前の甲子講道標からすぐ左側に
見える煉瓦造りの建物が望める 緑に茂った木は欅である
この煉瓦造りの建物は キッコーマン㈱)野田工場製造第3部煉瓦蔵
かつて名主を勤め 醤油醸造を家業としていた高梨家の辰巳蔵
昭和7年(1932)に造られた もろみ熟成のためのレンガ蔵で
レンガの特長から 熟成温度や湿度調整に好適と言われている
この煉瓦蔵の前に 髙梨兵左衛門家 (髙梨本家)がある
放鳥した鳥たちは [な~るほど]
ここ「コウノトリの里」で放鳥されたコウノトリは かなり
広範囲に行動し 北は秋田県 西は九州でも確認されたというが
令和3年8月現在 栃木県小山市・栃木市に3羽
野田市には4羽が生息していたという
全国でコウノトリを飼育している施設は 動物園など
約20ヵ所あり 放鳥も行なっているのは野田以外では
兵庫県豊岡市(平成17年国内初の放鳥)と福井県越前市で
これらの施設からの放鳥や その後の野外繁殖で
現在約200羽が野外で生息しているという 驚きである
野田 甲子講道標 [めぐり逢い]
桝田家住宅の土蔵の手前に建っているのは 甲子講道標である
甲子講(きのえねこう)とは 田の神としての信仰されていて
田植後の苗や収穫後の稲を供えたり 収穫の祝いを大黒上げなど
呼ぶこともあるという 鼠が大国主神を救ったという神話から
子(ね)の日が縁日とされ 甲子(きのえね)講と称して
大黒天を祀るのだという 風化していて 文字等は
確認できないが 野田の街の昔の賑わいを感じる
醤油醸造 高瀬船の舟運 [な~るほど]
江戸初期に江戸で消費される醤油の大半は大坂から供給されたもので
関東では正徳年間(1711~1716)頃からだと考えら 関東の野田では
永禄元年(1558) 飯田市郎兵衛がはじめて醤油を作ったとされる
寛文元年(1661) 高梨兵左衛門が醤油作りを始め
明和3年(1766) 茂木七左衛門が味噌作りから醤油作りに転じる
江戸で消費される醤油の大半は大坂から供給されたものだったが
野田独特の溜生揚醤油も 関西醤油に対してその精製が工夫され
江戸趣味の味覚(甘く濃い味)を生み出し 関東濃口醤油の素地が造られ
濃口醤油は 江戸時代に主に関東地方で発達 量の醤油原料の輸送は
この高瀬船の舟運により 江戸川・利根川経由で銚子と野田の
醤油醸造地まで運ばれ その後 出来上がった醤油の運搬は
消費地である江戸へと江戸川と利根川の水運を利用したのである
ここで育てて 放鳥 [な~るほど]
コウノトリは体長がおよそ110㎝ 翼を開いた長さが160~200㎝と
意外と大きな鳥であり その姿に圧倒される
かつては日本中で見られたが 乱獲や環境変化などにより
昭和46年に 野生では絶滅した
野田では 平成24年に多摩動物公園から譲り受けた親鳥が
その翌年に産卵し 雛が孵化したといい その後も
毎年幼鳥が誕生して 平成27年(2015)からは
毎年幼鳥の放鳥が行なわれているという 素晴らしい
江戸川の下河岸 [な~るほど]
江戸川の土手沿いに見える建物が下河岸 桝田家住宅
江戸時代から醤油醸造が盛んになり 原料の大豆・小麦・塩や
醤油の輸送には河川が利用され その積み卸しのための
河岸も多数あり 下河岸は江戸時代初期に創業して
仁左衛門河岸・今上河岸とも言われた河岸問屋で 最盛期には
河岸に50~60隻の舟が停泊し 活況を呈していて
大正末期には鉄道や自動車など陸上交通が優位となり
昭和13年に営業を終了した 江戸川は菜の花で埋もれていた
桝田家住宅 土蔵 [ブラボー]
桝田家住宅の土蔵 そして土蔵の鬼瓦である
この土蔵は大正15年/昭和元年 昭和前期に築造されたもので
土蔵造2階建 瓦葺 建築面積30㎡ 主屋南のオクニワの
東寄りに建つ土蔵造二階建で 切妻造桟瓦葺 西面戸口に
モルタル塗鉄扉を吊り 下屋で主屋と接続する 外壁はモルタル塗で
石造風に目地を切り 一階南面と二階南北面に鉄板葺庇付の窓を開く
こちらは南面 小屋は二重梁の和小屋 近代的な外壁の土蔵である
「こうのとりの里」 [めぐり逢い]
コウノトリが飛んだ 飛んだと言うよりは台から離れた
ぴょんと跳ねた感じであろうか ついでに羽根を広げた
この後 どのような展開になるのか愉しみであるが
シャッターには指を乗せたままである
野田市のコウノトリは 平成24年に多摩動物公園から
コウノトリ2羽を譲り受けたもので ここ飼育施設「こうのとりの里」で
飼育を開始し コウノトリの野生復帰を通じ
生態系ピラミッドの頂点に立った
コウノトリも生息できる豊かな自然環境と地域の経済・社会との
調和による「持続可能な地域づくり」を目指しているという
河岸問屋の桝田家 [めぐり逢い]
河岸問屋として栄えた桝田家住宅の主屋は、明治4年(1871)の建築で
住宅のみではなく 問屋の帳場 船宿の機能も持っていて
水害を防ぐ煉瓦塀・土蔵・不動尊祠などもあり 舟運交通の
数少ない遺構として貴重な文化遺産であるという
西側を流れる江戸川の堤防に面して建つ主屋は 桁行9間
梁間7間の木造2階一部平屋建で 寄棟造桟瓦葺とし
背面を葺き降ろしている 1階は梁間前半部が帳場や台所など
商用部分 後半部が私的な部屋で 2階には舟宿の客室3室がある
この煉瓦塀は 江戸川の洪水時 水の浸入を
防ぐ止水板を落とし込める仕掛けが施されている
桝田家住宅(下河岸) [気ままに散歩]
「大師山・報恩寺」が接する江戸川を下ると
堤の下に大きな住宅がある ここ野田下河岸(今上河岸)で
江戸時代から河岸問屋を営んでいた桝田仁左衛門家
桝田家住宅である 桝田家は 正徳2年(1712)野田下河岸に
開業した旧廻船問屋で かつての舟運の面影を伝える遺構である
江戸後期以降 醤油生産が盛んになったことから隆盛を極めたが
明治44年(1911)に千葉県営軽便(現東武鉄道)が開通
さらに関東大震災後には自動車輸送が広がるなどしたため
昭和13年(1938)に営業を終了した
飛んだ その瞬間 [ブラボー]
羽根を広げたのは 次の瞬間であった
シャッターに乗せた指が 勝手に動いて行く
そんな思いと同時に 情景は流れて行き カメラを流して行く
上手く撮れていることもあるのだが この瞬間に出逢えたことを
嬉しく感じる そんな瞬間であった
この時は満足という実感はなかったが 満たされた
そう感じていたのは確かである
今はこうしてフォトとして残っているのが解るが
この時は 上手く写っているのかも未知の世界であった
「大師山 報恩寺」 [な~るほど]
報恩寺 鐘楼である 報恩寺は幕末嘉永年間に雷火により
諸堂伽藍悉く焼失し 再興の動きもあったというが
明治維新の廃仏毀釈の嵐の中で 明治三年 寺領であった
現在の地に移されたようである 山号も変遷しており
堤台時代は「八幡山・薬師院・報恩寺」 明治時代に現在の地に
移されてからは 地名か「西高野山 報恩寺」
現在は新四国八十八ヶ所霊場を奉安し 弘法大師を本尊と
しているところから 「大師山 報恩寺」と呼ばれている
報恩寺の十一面観音様は 元々は江戸時代に起こった廃仏毀釈令により
「赤坂氷川神社」より 当時の報恩寺・氷川神社同士が協力して
そのご神体をお護りするために移設された仏様であるという
御用蔵跡地隣の報恩寺 [めぐり逢い]
御用蔵跡地を見下ろす江戸川の堤を 野田橋の反対方向へ行くと
まもなく杜のなかへと下る道があり 吸い込まれるように
入って行くと在ったのがお寺である 「報恩寺」
報恩寺は 応永二年(1395)宥譽上人の開創と伝えられていて
下寺であった堤台地蔵尊の本尊の台座に その年代が
彫られてるのが根拠である もともと野田市堤台にあり
堤台八幡神社の別当として
江戸時代には末寺二十四ヶ寺を有する本寺として
徳川幕府より御朱印状五石を拝領していたといい
現在その御朱印状五通が 千葉県文書館に所蔵されているという
現在 本堂は修繕工事が行われ ブルーシートで覆われていた
飛ぶまで待とう コウノトリ [めぐり逢い]
その後 二羽は備え付けのテーブルの上に上がった
こうして 飛びそうな姿勢になるのだが 全く行動に移さない
こちらは次の瞬間のために シャッターに指を残したまま
じっと待っている態勢が続く これは何時ものことである
飛ばぬなら 飛ぶまで待とう コウノトリ
徳川家康の気持ちが 良く理解できるのである
宮内庁へ 御用蔵醤油 [な~るほど]
こちらは野田市郷土博物館に展示されていた 大日本物産図会
「下総国醤油製造之図」 歌川広重(三代) 明治10年(1877)に開かれた
第1回内国勧業博覧会に際して 全国各地の物産品を紹介した図絵
ところで キッコーマンの御用蔵醤油については
このブログでも触れたが 亀甲萬御用蔵醤油が昭和14年(1939)から
宮内庁へ納めつづけられている御用達品で 御用蔵では
国産の丸大豆と小麦だけを使い 木桶で1年間じっくりと
熟成させた 天然醸造の醤油が造り続けられていて
手作りに近い少量生産のこの醤油は「御用蔵醤油」という名前で
一部が限定で販売されてきた 醤油の大吟醸ともいえるもの
「キッコーマン特選丸大豆しょうゆ」の原点ともいえる醤油である
移設された御用蔵 [ブラボー]
これが野田駅近くの野田工場内に移された御用蔵である
移築前の御用蔵は 宮内省(現宮内庁)にお納める醤油の
専用醸造所として 昭和14年(1939)に江戸川沿いに建設されたが
老朽化で大規模な補修工事が必要となり 70年の節目に
移築工事を行った 移築にあたり 醤油を仕込む木桶
屋根の小屋組み 屋根瓦 石垣 門などは移築前のものを使用し
原形に近い形で再現し この御用蔵では現在も宮内庁に
納める醤油を醸造していて また 伝統的な醤油醸造技術や
1939年の御用蔵の建設当時の道具や装置を保存・展示しているという
申し込めば 見学も可能である
寄り添う二羽 [めぐり逢い]
少し距離を置いていた二羽だが 一羽が近づいて行く
近づいたのは足環が黄色のオスのコウくんである
足環が赤色のメスのコウちゃんの背後に迫った時
コウちゃんが羽根を広げる仕草 待っていた瞬間か
シャッターを押す指に力が入り 反応して行くのが解る
次の瞬間 次の瞬間と待ち構えたが 羽は直ぐに
閉じられた 展開なしであり また我慢と集中の
時間が続いて行く 気が付くと三十分が経過している
このまま徒労に終わるのか 辛抱の時間は継続する
亀甲萬 御用蔵跡地 [めぐり逢い]
江戸川の堤沿いにあるキッコーマンフードテック 中野台工場
その隣に広い空き地が広がっている ここには野田駅近くの野田工場内に
建っていたお城の建物の「御用醤油醸造所」 その建物は
昭和14年(1939)に ここに建設されたもので 平成23年(2011)に
野田工場内に移設されたれたものである 御用醤油醸造所
ここはその御用蔵跡地で フォト下の左側 四阿(あずまや)が
その名残をとどめている 醤油の街 野田の歴史である
コウノトリの形態 [な~るほど]
コウノトリの形態は 全長110~115㎝ 翼長58~67㎝
翼開長195㎝ 体重3~5㎏ 翼開長時は2m近く在り大きいのだが
今日はその大きさを 確認出来るのかどうか
全身の羽色は白く オスとメスの区別は外見だけでは
判断しにくいのが特徴で DNA鑑定などで初めて判明するという
そのため足などにコウノトリに無害な有色のプラスチックを
つけるなどして個体を区別している 嘴は黒く 基部は赤い
嘴長オス26.1~27.3㎝ 眼の周囲は皮膚が赤く裸出している
後肢は赤い 他の大多数の鳥類と異なり
爪は鉤爪ではなく少し尖った平爪(扁爪)である
「野田組」仲間組合 [な~るほど]
江戸川の野田橋近く 戸邉五右衞門家 そしてヒゲタ醬油と並び
ここにもキッコーマンフードテック 中野台工場が在る
野田の醬油醸造の歴史は 文政7年(1824)に 野田を中心とする醬油醸造家の
仲間組合「野田組」は19軒 幕末に向かって大きな伸びを示せたのは
江戸川の存在が大きく 銚子地域に比べ 野田が大消費都市である
江戸にアクセスしやすかったという要因の一つである
当時 銚子造醬油仲間が 天明3年(1783)に 高崎藩役所に
江戸から3~4里以内の場所に造醬油屋が数カ所でき
運賃その他諸経費が安く たいへん評判が良く 銚子醬油の
断りや 値下げを要求したりするようになり 役所に冥加金
(みょうがきん=租税の一種)の引き下げを願った訴状があるという
銚子は江戸時代 高崎藩の領地(飛び地)であったという
銚子は江戸の発展に 軍事上 経済上も要地であった
戸邉家の倉庫と米蔵 [ブラボー]
フォト下は江戸川の堤の上からのものである
戸邉五右衞門家の倉庫は 昭和24年(1949)の建築で 主屋の西南
江戸川堤防に面して建ち 桁行8間 梁間3間と規模が大きく
木造2階建 寄棟造桟瓦葺とし 平側に吹抜け下屋を設けている
外壁はモルタル塗一部下見板張 内部は桁行で2分され 川側に居室
主屋側には 吹抜けの広い収納スペースを設けている
米蔵も同じく昭和24年(1949)の建築で 主屋の東南
通り沿いに位置している 桁行5間 梁間2間の寄棟造妻入桟瓦葺の
木造平屋建である 外壁はモルタル塗 内部は桁行で2分され
入口側は米や味噌などを収蔵する蔵 背面側は養蚕部屋として
使用されたという 歴史的な屋敷構えを構成する一要素であるという
戴きますのポーズ [めぐり逢い]
飛ぶまでとは行かないが にわかに羽根を広げたものの
この囲われたゲージの空間の中では 飛ぶことは期待出来ないのか
そんな気持ちが沸き上がる一瞬でもあるが
羽根を広げた姿を想像できる一瞬でもあった
その少しの期待が 私の時間を引っ張って行く
この後 どうなるのかは 請うご期待である
上河岸 水運の繁栄 [な~るほど]
江戸川の野田上河岸にあった河岸問屋の戸邉五右衞門家は
主屋は明治26年(1893)頃のもので 昭和4年(1929)頃増築
昭和24年の江戸川の河川改修に伴い 現在の位置へ曳家されたもので
桁行8間半 梁間6間の大規模な建築で 寄棟造桟瓦葺とする
増築された2階建の洋館は外壁モルタル塗で 2階に縦長窓を配した
応接室を設ける 良質な遺構で 河岸の繁栄を伝えている
洋館の奥には土蔵があり 洋館との間に蔵前を設けている
桁行3間 梁間2間 土蔵造の切妻造妻入桟瓦葺で 2階建とし
1階床下も物入として利用している 外壁は漆喰仕上げ
重厚ななかに 庇付の窓や太い折釘 2段に作られた 水切りなどが
変化を与えているというが 現在も生活の場として使用され
その様子を確認することは出来ない
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