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杉材の仕込み樽 [な~るほど]

高梨邸 樽.jpg
昭和7年築のキッコーマン煉瓦蔵 その内部には杉材の仕込み樽が
72本並べられているというが 大きな杉桶が置いてある
もう風化していて 崩れてはいるが 樽の大きさは伺える
使用される杉樽の大きさ 高さ2m 直径2.6m 1㍑がパックが
8300本分の醤油が可能だという レンガの蔵は仕込みの際に
温度 湿度を調節するのに最適で 発酵中の液体の
醪(もろみ)の熟成に使用する樽で 1年保管する煉瓦の蔵である
醪(もろみ)とは醤油麹に 食塩水を混ぜたものである

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上花輪観音堂 [な~るほど]

IMG_0528.JPG
欅並木の左側に在るのは この上花輪観音堂である
本尊の十一面観音像は毎年8月の盂蘭盆会の際に開帳されるという
特に馬持主たちによって信仰されてきたお堂であり 江戸時代
馬による醤油運搬は 醸造元の蔵から馬などを使って江戸川沿いの
河岸(船着場)へ運んで 高瀬船に積み替え輸送していた
輸送量は 馬1頭で醤油樽7樽 普通の高瀬船1隻で1,200樽で
明治時代になり 醤油の生産量増加などで荷馬車が使われたが
更なる輸送力増加として 工場から河岸までの道路などに軌道を敷設して
トロッコを人力で走らせる人車鉄道が明治33年(1900)に完成
トロッコ1両を2人1組で押し 70樽(馬10頭分)が運べたという
また2~3両を連結し 馬1頭で引っ張ることもあったが
大正時代後期には ほとんど馬車鉄道化していたという

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コウノトリの羽根 [な~るほど]

IMG_2033.JPG
長い時間待ったが その甲斐があり 満足のいくフォトを
撮ることが出来たが 思っていた以上に美しかった
そして大きかったのである
余りの言葉はいらないであると思う
風切羽・大雨覆は黒 0~1歳の幼鳥のみ 中雨覆の一部が黒
翼を閉じていると隠れて見えないが 尾羽は全て白
風切羽(かざきりばね)とは 鳥類の翼後方に整列している
一連の羽根で 大雨覆とは風切羽の基部を覆い
前方からの空気の流れをなめらかにしている  後列のものは大きく
大雨覆と呼んで区別するほか 上面のものを上雨覆
下面のものを下雨覆 前面を前縁雨覆などという

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放鳥した鳥たちは [な~るほど]

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ここ「コウノトリの里」で放鳥されたコウノトリは かなり
広範囲に行動し 北は秋田県 西は九州でも確認されたというが
令和3年8月現在 栃木県小山市・栃木市に3羽
野田市には4羽が生息していたという
全国でコウノトリを飼育している施設は 動物園など
約20ヵ所あり 放鳥も行なっているのは野田以外では
兵庫県豊岡市(平成17年国内初の放鳥)と福井県越前市で
これらの施設からの放鳥や その後の野外繁殖で
現在約200羽が野外で生息しているという 驚きである

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醤油醸造 高瀬船の舟運  [な~るほど]

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江戸初期に江戸で消費される醤油の大半は大坂から供給されたもので
関東では正徳年間(1711~1716)頃からだと考えら 関東の野田では
永禄元年(1558) 飯田市郎兵衛がはじめて醤油を作ったとされる
寛文元年(1661) 高梨兵左衛門が醤油作りを始め
明和3年(1766) 茂木七左衛門が味噌作りから醤油作りに転じる
江戸で消費される醤油の大半は大坂から供給されたものだったが
野田独特の溜生揚醤油も 関西醤油に対してその精製が工夫され
江戸趣味の味覚(甘く濃い味)を生み出し 関東濃口醤油の素地が造られ
濃口醤油は 江戸時代に主に関東地方で発達 量の醤油原料の輸送は
この高瀬船の舟運により 江戸川・利根川経由で銚子と野田の
醤油醸造地まで運ばれ その後 出来上がった醤油の運搬は
消費地である江戸へと江戸川と利根川の水運を利用したのである

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ここで育てて 放鳥 [な~るほど]

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コウノトリは体長がおよそ110㎝ 翼を開いた長さが160~200㎝と
意外と大きな鳥であり その姿に圧倒される
かつては日本中で見られたが 乱獲や環境変化などにより
昭和46年に 野生では絶滅した
野田では 平成24年に多摩動物公園から譲り受けた親鳥が
その翌年に産卵し 雛が孵化したといい その後も
毎年幼鳥が誕生して 平成27年(2015)からは
毎年幼鳥の放鳥が行なわれているという 素晴らしい

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江戸川の下河岸 [な~るほど]

江戸川と下河岸.jpg
江戸川の土手沿いに見える建物が下河岸 桝田家住宅
江戸時代から醤油醸造が盛んになり 原料の大豆・小麦・塩や
醤油の輸送には河川が利用され その積み卸しのための
河岸も多数あり 下河岸は江戸時代初期に創業して
仁左衛門河岸・今上河岸とも言われた河岸問屋で 最盛期には
河岸に50~60隻の舟が停泊し 活況を呈していて 
大正末期には鉄道や自動車など陸上交通が優位となり
昭和13年に営業を終了した 江戸川は菜の花で埋もれていた

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「大師山 報恩寺」 [な~るほど]

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報恩寺 鐘楼である 報恩寺は幕末嘉永年間に雷火により
諸堂伽藍悉く焼失し 再興の動きもあったというが
明治維新の廃仏毀釈の嵐の中で 明治三年 寺領であった
現在の地に移されたようである 山号も変遷しており
堤台時代は「八幡山・薬師院・報恩寺」 明治時代に現在の地に
移されてからは 地名か「西高野山 報恩寺」
現在は新四国八十八ヶ所霊場を奉安し 弘法大師を本尊と
しているところから 「大師山 報恩寺」と呼ばれている
報恩寺の十一面観音様は 元々は江戸時代に起こった廃仏毀釈令により
「赤坂氷川神社」より 当時の報恩寺・氷川神社同士が協力して
そのご神体をお護りするために移設された仏様であるという

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宮内庁へ 御用蔵醤油 [な~るほど]

下総国醤油製造之図.jpg
こちらは野田市郷土博物館に展示されていた 大日本物産図会
「下総国醤油製造之図」 歌川広重(三代) 明治10年(1877)に開かれた
第1回内国勧業博覧会に際して 全国各地の物産品を紹介した図絵
ところで キッコーマンの御用蔵醤油については
このブログでも触れたが 亀甲萬御用蔵醤油が昭和14年(1939)から
宮内庁へ納めつづけられている御用達品で 御用蔵では
国産の丸大豆と小麦だけを使い 木桶で1年間じっくりと
熟成させた 天然醸造の醤油が造り続けられていて
手作りに近い少量生産のこの醤油は「御用蔵醤油」という名前で
一部が限定で販売されてきた 醤油の大吟醸ともいえるもの
「キッコーマン特選丸大豆しょうゆ」の原点ともいえる醤油である

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コウノトリの形態 [な~るほど]

IMG_1980-1.JPG
コウノトリの形態は 全長110~115㎝ 翼長58~67㎝
翼開長195㎝ 体重3~5㎏ 翼開長時は2m近く在り大きいのだが
今日はその大きさを 確認出来るのかどうか
全身の羽色は白く オスとメスの区別は外見だけでは
判断しにくいのが特徴で DNA鑑定などで初めて判明するという
そのため足などにコウノトリに無害な有色のプラスチックを
つけるなどして個体を区別している 嘴は黒く 基部は赤い
嘴長オス26.1~27.3㎝ 眼の周囲は皮膚が赤く裸出している
後肢は赤い 他の大多数の鳥類と異なり
爪は鉤爪ではなく少し尖った平爪(扁爪)である

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「野田組」仲間組合 [な~るほど]

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江戸川の野田橋近く 戸邉五右衞門家 そしてヒゲタ醬油と並び
ここにもキッコーマンフードテック 中野台工場が在る
野田の醬油醸造の歴史は 文政7年(1824)に 野田を中心とする醬油醸造家の
仲間組合「野田組」は19軒 幕末に向かって大きな伸びを示せたのは
江戸川の存在が大きく 銚子地域に比べ 野田が大消費都市である
江戸にアクセスしやすかったという要因の一つである
当時 銚子造醬油仲間が 天明3年(1783)に 高崎藩役所に
江戸から3~4里以内の場所に造醬油屋が数カ所でき
運賃その他諸経費が安く たいへん評判が良く 銚子醬油の
断りや 値下げを要求したりするようになり 役所に冥加金
(みょうがきん=租税の一種)の引き下げを願った訴状があるという
銚子は江戸時代 高崎藩の領地(飛び地)であったという
銚子は江戸の発展に 軍事上 経済上も要地であった

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上河岸 水運の繁栄 [な~るほど]

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江戸川の野田上河岸にあった河岸問屋の戸邉五右衞門家は
主屋は明治26年(1893)頃のもので 昭和4年(1929)頃増築
昭和24年の江戸川の河川改修に伴い 現在の位置へ曳家されたもので
桁行8間半 梁間6間の大規模な建築で 寄棟造桟瓦葺とする
増築された2階建の洋館は外壁モルタル塗で 2階に縦長窓を配した
応接室を設ける 良質な遺構で 河岸の繁栄を伝えている
洋館の奥には土蔵があり 洋館との間に蔵前を設けている
桁行3間 梁間2間 土蔵造の切妻造妻入桟瓦葺で 2階建とし
1階床下も物入として利用している 外壁は漆喰仕上げ
重厚ななかに 庇付の窓や太い折釘 2段に作られた 水切りなどが
変化を与えているというが 現在も生活の場として使用され
その様子を確認することは出来ない

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江戸川上河岸 河岸問屋 [な~るほど]

戸邉五右衞門家.jpg
江戸川の菜の花堤 その岸側に在るのが この戸邉五右衞門家
江戸川の船に 荷物を積み込み あるいは荷揚げする場所
野田には「河岸(かし)」と呼ばれる港が幾つかあり
この辺りは 今上村の今上河岸と呼ばれた
戸邉五右衞門家は 野田上河岸(中野台河岸)で江戸時代から河岸問屋を営み
明治期に建造された主屋は 帳場や座敷に河岸問屋の名残が認められる
この主屋と 隣接する重厚な外観の土蔵 2階に船頭部屋をもつ倉庫
通りに面した米蔵は ともに昭和24年の江戸川改修に伴って
現在の位置に曳き屋したものだが
江戸川舟運の隆盛期を偲ばせる 貴重な建造物群のひとつだという

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野田生まれのコウノトリ [な~るほど]

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この檻のなかに居るのは 1995年6月 多摩川動物公園生まれの
コウちゃんメス(29歳)と2005年3月 多摩川動物公園生まれの
コウくんオス(19歳)である この鳥は足環が黄色なので
オスのコウくん メスのコウちゃんは足環が赤色である
このほかに別の場所に 2013年6月に生まれたさくら
足環が橙色で 他の場所で飼育されている
この「コウノトリの里」からは 12羽が放鳥されているが
5羽の死亡が確認され 7匹が生存しているという
2024年4月末に コウノトリのヤマト君とヒナタちゃんに
ひな2羽の誕生を確認したとというニュースが流れた
市内の自然の中で繁殖に成功したのは 飼育を開始して以来初めて

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ヒゲタ醤油 野田工場 [な~るほど]

ヒゲタ醤油 ロゴ マーク.jpg
こちらは香取神社の西側 野田橋近く在るヒゲタ醤油の工場
ヒゲタ醤油は銚子の醤油醸造会社で 銚子駅を挟んで
東にヤマサ醤油 西にヒゲタ醤油が在るが 野田にも工場が在る
因みに日本の五大五大醤油醸造会社は 野田・キッコーマン 銚子・ヤマサ
銚子・ヒゲタ 龍野・ヒ ガシマル 小豆島・マルキン
千葉県野田と調子に三社 兵庫県龍野に一社 香川県小豆島に一社
ヒゲタ醬油は キッコーマンと資本提携をしていて
野田では キッコーマン・ヒゲタ醤油・キノエネ醤油の三社が
醤油の製造をしている 町はほのかにお醤油の香りがする
と言うが 私はあまり感じなかったのである

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香取神社に都電の名残 [な~るほど]

香取神社 参道敷石.jpg
香取神社の鳥居は道路の反対側にあり 本殿の後側が道路
香取神社の参道は 鳥居から本殿までの間 敷石が敷かれているが
この敷石 東京を走っていた都電が廃止されたの際に
払い下げられたものを この神社に敷設したものだという
都電の敷石は上等な御影石でり 各地で再利用されたというが
1967年 都電撤去が始まった時点で 車両は1068両
レールは延べ 77万6000m 敷石(1枚30 × 60cm)は330万枚あったといい
その一部が ここ上花輪の香取神社の敷石となった
その都電は今 三ノ輪から早稲田までのルートしか残っていない

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琴平神社への通用門 [な~るほど]

茂木七郎右衛門家住宅.jpg
茂木七郎右衛門邸内にある琴平神社
鳥居の前左側には邸内への木戸があり 開いていた
もちろん 今も生活の場として使用され 内部の見学はできない
安永元年(1772)より 屋号を柏屋として醤油醸造業を営み
明治20年(1887) 野田醤油醸造組合結成にあたり
5代茂木七郎右衛門が頭取に就任 大正6年(1917)の
野田醤油株式会社設立の際にも6代茂木七郎右衛門が社長に就任するなど
明治から大正にかけて野田の醤油醸造業に大きな役割を果たした
茂木七郎右衛門邸宅内に在る琴平神社 邸内神として祀られ
明治時代以降は広く地域の信仰を集めている

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日本の伝統彫刻 宮彫 [な~るほど]

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仏像彫刻と楼閣建築の装飾をする伝統彫刻の宮彫とは
建造物の外回りだけではなく 回廊・欄間などの室内にも及び
そうした全ての空間部分をデザインし 下絵として絵画化し
それを立体的に木に彫刻して 表現するものであるといい
その内 欄間部分は簡略化され一般大衆化したものが民家の中で
独自に発展し 現在も欄間屋として親しまれている
当初宮大工(堂宮師)の棟梁が 簡単な模様や飾りを彫ることから始まり
発展していった 江戸時代に入ると彫刻ができないと棟梁には
なれないと言われるほどでもあり その内 彫刻部分が発展し
堂宮大工と彫刻専門の宮彫師(=宮師)が分化し 専門的になって行く
宮彫には流派が生まれ その代表的なものが江戸前期では
大隅流であり 後期では立川流であるという

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ニノ鳥居 「象頭山」の篇額 [な~るほど]

琴平神社 扁額 象頭山.JPG
第一鳥居を抜ると狛犬 そして玉垣の後ろにあるのが
この第二鳥居である 創建は寛政元年(1789)と古く
二代茂木七郎右衛門家が 讃岐の金刀比羅宮から分祠したものだが
第一鳥居 そしてこの第二鳥居は当時の物ではないが
第二鳥居の扁額には 少し観難いのだが 「象頭山(ぞうずさん)」
とあり 歴史と風格さえ感じるものである
象頭山とは 分祠した金刀比羅宮が鎮座する山で
山の形が象の頭に似ていることから象頭山と呼ばれている

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真言宗豊山派の西光院 [な~るほど]

愛宕神社 西光印.jpg
こちらは 野田愛宕神社と地続きとなっている真言宗豊山派の西光院
江戸前期の寛永20年(1643)創建で 明治維新時の神仏分離までは
野田愛宕神社の別当寺を務め 愛宕権現の本地仏である勝軍地蔵を
祀る寺院で 神仏習合が今も見ることができる 別当寺とは
江戸時代以前から明治維新まで 神仏習合の過程で成立した
仏事をもって神社に奉仕する寺院のことで 別当とは「別に当たる」で
本来の意味は「別に本職にあるものが他の職をも兼務する」という意味
フォト下の本堂は天保2年(1831)に火災で失ったが
弘化2年(1845)に再建された 愛宕神社と共に広い境内に並ぶ

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氏神 雷神の迦具土命 [な~るほど]

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愛宕神社の由緒は 野田開墾の後 火の災難を防禦するために
山城國愛宕郡愛宕(現在の京都市右京区)の里から
この地に 延長元年(923)迦具土命(カグツチ)の御分霊を遷奉りて
氏神とした 迦具土命は雷神を祀り 防火を司る神様で
依って野田郷開梱後 郷内に勢力を伸ばしはじめた
土豪(農兵)等の間に 争いなどがあり 山火事ばかりでなく
兵火の心配も多く故に火伏の神を祀ったと 伝えられているという
迦具土の「カグ」とは 火の輝くこと「ツチ」とはその霊力のことで
この神名は神の 輝くお力について言ったもの
また火霊神(ほむすびのかみ)とも言われ 火が万物を
生み育てる力の根源である霊力を称えた名でもある
古代の農耕守護 五穀豊穣の神様であると共に 愛児(あたご]様
とも言われ 安産 子供の成長 成育の神様でもあるという

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愛宕神社 交差点鳥居 [な~るほど]

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以前立ち寄った須賀神社の下町交差点から 本町通り(流山街道)を
北へ1㎞もない所に 交差点に向かって建つ 愛宕神社の鳥居である
鳥居を入ると広い境内だが 昔は鳥居はこの場所になく
大きな旅館があったが 愛宕神社前の道路工事で多く の家が移転
この場所の尾張屋旅館も移転 神社境内の拡張が拡張されたといい
この奥の左手に在るのが本殿 参道が延びその正面 この奥の右手に
鳥居があり その鳥居はこの鳥居の反対側 奥の東に在るという

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牧場管理 花野井家 [な~るほど]

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花野井家は 流山市前ケ崎に所在する中世の前ケ崎城跡に接した
高台に屋敷を構え 元来はこの城に属した地侍層の出身といわれ
江戸幕府直轄で軍用馬の放牧・育成をおこなっていた小金牧で
村の名主として牧士となり 農民を指揮し 牧場の管理していた
移築される前は 間口10間半 奥行5間半の大きさだったが
移築を期に 建造当初の形式である間口8間 奥行5間の規模に復原された
間取は 居間である板敷きの「ひろま」 納戸である「へや」のほか
客座敷として4畳・10畳・6畳の3室が並ぶ5室構成で 左手には土間があり
座敷の部屋部分と土間部分が同一の棟の内に取り込まれている直屋型の住宅で
特に居間は特徴的で 21畳敷ほどの板の間の表側は格子窓のみとし
閉鎖的である これは外部との接触を避けた工夫と考えられるが
今回は見られず 次回の訪問が愉しみである

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室町時代のイジメ痕跡 [な~るほど]

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フォトは仁王門の裏側である 金乗院は1398年(室町時代)に
創建され 仁王門は宝暦11年(1761)に建立された
仁王門には その建設にまつわる伝説があるのだが
このフォトのなかでも観られるのだが 仁王門の柱が
なぜか一本短くなっていて 途中から石の柱になっている
左側の隅の柱である それは請負大工の棟梁に
反感を持っていた者が 困らせてやろうと 柱を短く切ったが
棟梁は事前に察知し 石の台をこっそり準備して
門の感性を遅裸せずに完成させたと言うことである
今でもその痕跡が このように残っている

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清水公園の起源とは [な~るほど]

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清水公園である 公園は面積28万㎡の敷地を有する自然公園で
園内はフォトにも観られるように 日本さくら名所でもあり
またつつじ祭りなども行われている 公園の歴史は古く
明治27年(1894)に野田醤油(現・キッコーマン)初代社長の父である
茂木柏衛が 金乗院(1398年開山)の門前の林地5千5百坪(約18,200㎡)を
借地料1000円を前納して 50年契約で借地して造園した庭園
(現・第一公園) および迎賓館(現・聚楽館)を同年に
町の人々に解放したのが この公園の起源であるという 驚きである

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醤油の街 野田の歴史 [な~るほど]

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寛文元年(1661)に上花輪村名主であった髙梨兵左衛門が醤油醸造を開始
翌年(1662)に 茂木佐平治が味噌製造を開始 その後1764年に
醤油製造も手がけた 1704年に甲田三郎兵衛が醤油醸造を始め
安永4年(1775)には 杉崎市郎兵衛 大塚弥五衛 竹本五郎兵衛
甲田治郎兵衛らが醤油醸造を始める 1781年に7家が後の野田醤油の
基礎になる「野田醤油仲間」を結成する その後江戸の人口の増加と
利根川水運の発達と共に野田の醤油醸造は拡大 1800年代中頃には
髙梨兵左衛門家と茂木佐平治家の醤油が「幕府御用醬油」となる
天保元年(1830)にキノエネの山下平兵衛が醤油醸造を始めた
明治20年(1887)に「野田醤油醸造組合」が結成され 大正6年(1917)
茂木一族と髙梨一族の8家合同による「野田醤油株式会社」が設立
この会社が後にキッコーマン株式会社となる このときに
野田の醤油醸造業者のほとんどが合流したが キノエネ醤油のみが
合同に参加せず 現在まで独立した事業者として存続している

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キッコーマン 第一給水所 [な~るほど]

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茂木七左衛門邸の東側にある南蔵・北蔵に沿う道に突き当たる道
先には厳島神社・弁財天があり この道は弁天通りと言うらしい
フォト上の道の右へ行くと茂木七左衛門邸 左が厳島神社・弁財天
さて この建物 野田には醤油製造に関連した歴史建築が点在するが
これはキッコーマン給水所 野田醤油(株)が原料水の統一を
目的として建設され 野田町民へも給水 大正12年(1923)3月に稼働し
昭和50年(1975)3月まで続いたという 以前は給水塔も
在ったというが 老朽化で取り壊され この建物が残っている

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野田市 春風館道場 [な~るほど]

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茂木七左衛門邸の東側にある南蔵・北蔵の道を
西側(右手)に向かうと あるのが春風館道場
野田醤油株式会社4代社長 中野栄三郎(1946~1958年)
6代茂木七郎右衛門の二男で中野長兵衛の養子となり
野田醤油株式会社体育会の稽古場として昭和3年[1928)に開館した武道場
建物は元は茂木七郎右衛門家(屋号・柏屋)の店舗で
大正6年(1917)の野田醤油株式会社創業期の本店社屋として
使用されたものを移築したもので 平成20年(2008)に
野田市へ寄贈され 現在は武道の奨励・振興の場として
柔道場 剣道場 弓道場など 一般利用されている

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宅地内の琴平神社 [な~るほど]

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キッコーマン中央研究所の奥に在る 琴平神社の鳥居
茂木七郎右衛門家 宅地隣の境内に南面して建つこの神社
桁行二間梁間一間 前方一間吹放ち 向唐破風造の照り起り屋根を
妻入とする 虹梁形頭貫を波紋籠彫の持送で受け
中備の透彫や板支輪など精緻な彫刻で充溢させ
笈形や兎毛通しなど立川流大工の技量が冴える近代社殿である
鳥居の奥の右側には手水舎であろうか
本格的な形式をもつ手水舎であるといい
キッコーマン創業者の邸宅内に創建されたものとはいえ
想像をはるかに超えるものである

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野田商誘銀行 [な~るほど]

野田商誘銀行.jpg
興風会館を出て 北へ向かうと在るのが以前掲載した
キッコーマン本社である その本社の先に在るのが
この建物 元株式会社野田商誘銀行(のだしょうゆうぎんこう)
この名称は 創立委員のほとんどが醤油醸造家であり 醤油の語呂に因み
「商誘」と名づけられた銀行で 建物は大正15年(1926)に完成した
現在は(株)千秋社の建物となっていて 中は見学出来ない
明治32年(1899)に茂木啓三郎が発起し 翌年 茂木を中心とした
野田の醤油醸造業者らによって発行株式5000株・資本金25万円で設立
各醤油製造家がそれぞれの醤油仕込み高に比例して資本金を払い込み
キッコーマンの創業家8家である高梨・茂木一族が3,715株 (74.3%) を
出資したことから 事実上の“キッコーマン醤油銀行”であった

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