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鴉山稲荷神社 [めぐり逢い]

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「蔵造りの街並み」のほど近くにあり 川越に蔵が建つ
何百年も前の室町時代から鎮座するのが
ここ鴉山(からすやま)稲荷神社である
この神社の由緒は 川越城築城を任された太田道真が 城の櫓より
四方を眺めたところ 富士山が見えず 森を伐採したところ
小祠・及び源氏の祈願文を発掘したことから
文明元年(1469)社殿を建立 太田道真の子僧正国院清須を別当とする
江戸期に入っても代々藩主の崇敬篤く 松平斉省は
「鴉山祠」の額を奉納する この額は現在も残っているという
神社は塚上にあり 鴉が群棲していたことにより鴉山稲荷神社と
称されるようになったと言われ 中でも境内が広いことから
川越七社の第一位とされ 「親塚稲荷」とも称されている

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銭洗い弁財天と宝池 [めぐり逢い]

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川越熊野神社は室町時代の天正18年(1590)に
紀州熊野本宮大社から分祠され 地元では「おくまんさま」
と呼ばれ親しまれる神社である 境内を正面にして右側には
銭洗い弁財天と宝池があり この宝池で洗って清めた
金銭を財布に入れておくと 財運に恵まれるのだという
毎月第3日曜日は 銭洗い弁財天の縁日が行われ
午前11時と午後3時には 宝池でお清めした御福銭(おふくせん)を
先着50名に 無料で配布しているそうである

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「むすひの庭」の八咫烏 [な~るほど]

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拝殿のすぐ左側にある「むすひの庭」である 鳥居の奥には
八咫烏様が祀られていて 開運 そして縁結びのご利益ありといわれ
むすひの庭では 八咫烏からの一言が頂けるという
八咫烏は太陽の化身で三本の足があり この三本の足はそれぞれ
天・地・人を顕わすと言われ つまり太陽の下に神様と
自然と人が血を分けた兄弟であるということを 二千年前に示していた
サッカー協会のマークの八咫烏は 神武天皇の故事に習い
ボールをゴールに導くように との願いが込められている

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八咫烏(やたがらす)とは [な~るほど]

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川越熊野神社に祀られている八咫烏(やたがらす)である
八咫烏は熊野神社の社紋の八咫烏(やたがらす)とは
神武(神武天皇)東征の際 熊野国から大和国へ道案内をした鳥で
熊野の大神にお仕えする鳥で 烏は夜明けを呼ぶ鳥
太陽を招く鳥といわれ 人生の闇に悩む人々を
明るい希望の世界に導く霊鳥として広く信仰される
日本を統一した神武天皇が熊野の山中で道に迷われた時
八咫烏が大和の橿原まで先導したという故事に習い
導きの神として篤い信仰がある 「八咫」とは大きく広いという意味

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川越熊野神社 拝殿 [な~るほど]

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拝殿へと進む 御祭神は熊野大神の御四神の
伊弉諾命 伊弉册命は 日本の歴史の一番最初の夫婦の神様で
このお二人の神様は 夫婦道を興しになられただけでなく
多くの国や森羅万象の神様をお産みになられたという
特に川越熊野神社の主祭神である伊弉諾命は
天照大神(あまてらすおおみかみ) 素戔嗚尊(すさのおのみこと)などの
御親神様でもあり 御神徳の高い神として人々に敬われ
「禊(みそ)ぎ」をとても大切にしている神道で その起源は
古事記によると 伊弉諾尊の禊ぎにあるとされている
また 速玉之男命と事解之男命は 伊弉諾命が黄泉の国から
去る際に現れた神と言われ 神社ではどちらの神様も穢れを祓う
神様なので 「厄祓い」「厄除け」の神様としてお祀りしているという

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熊野神社 夏越の祓 [めぐり逢い]

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フォト上が 鳥居の石畳の通りの両端 小石が敷き詰められた
参道の姿がよく分かるが 神社の参道におけるルールは
鳥居で一礼し 鳥居をくぐると そこは神様の道と
されているので 参道の真ん中を歩かず 左端を歩くのだが
ここは 両端が「足踏み健康ロード」である
この日は六月下旬で 参道には夏越の祓の神事で
大きな茅の輪が据えられていた 夏越の祓とは
1年の半分にあたる6月30日に 半年の間に身に溜まった
穢れを落とし 残り半年の息災を祈願する神事
この年は 穢れを川越で落とす そうこの年の三月
私が初めて入院した年であった

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川越・熊野神社の鳥居 [めぐり逢い]

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こちらは旧鶴川座跡地近くに在る 川越・熊野神社の鳥居
天正十八年(1590) 蓮馨寺の二世然誉文応僧正が紀州熊野より勧請した神社
正徳3年(1713) 十六世然誉了鑑僧正の時 社殿を改築し
鳥居を石造りとし 現在ある二の鳥居がそれである
この鳥居の石畳の通りの両端は 小石が敷き詰められた参道で
「足踏み健康ロード」と言われ 裸足で歩くことで
足裏のつぼを刺激して 健康へのご利益を願う面白い名所である
御祭神は熊野大神で すなわち伊弉諾 命(いざなぎのみこと)
伊弉册命(いざなみのみこと)・事解之男命(ことさかのおのみこと)
速玉之男命(はやたまのおのみこと)の御四神である

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芝居小屋 旧鶴川座 [めぐり逢い]

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七曲り そして永島家住宅(旧武家屋敷)を西の連雀町へ歩くと
出逢ったのは旧鶴川座跡地 川越の「蔵造りの町並み」の一番街に向かう
途中にある旧鶴川座は 明治時代に芝居小屋として建てられ
その後映画館になった 築100年以上の木造建築は 現在
一階はフードコート「縁結び横丁」 四階建の観光客向けホテル
建物内には 芝居小屋の遺構が残り 木製車輪のまわり舞台や
奈落から花道方向へ続くレンガ通路などがあるという

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城下の武家地の七曲 [な~るほど]

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永島家住宅(旧武家屋敷)辺りの道である 川越藩主秋元家時代から
松平大和守の川越入封に伴い 武家地は大きく拡大
これに伴い道もつくられ 直線路となっているが
秋元家時代に造られた道は このように非常に屈曲が多く
通称「七曲り」と呼ばれるようになる 「七曲(ななまが)り」とは道が
このように幾度にも折れ曲がっている場所のことをいい
武家地の拡大ということにより 昔の道が残された場所で
このように 江戸時代の名残を留める道として残っている

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枳殻で生垣の武家屋敷 [な~るほど]

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永島家は 川越藩の御典医(お抱え医師)で この屋敷は
川越城に程近く 南大手門前に広がる武家の屋敷町エリア
この辺りには昔 武家の屋敷町で 三十軒程在ったそうだが
今その俤を遺すもの僅かここだけで 生垣に枳殻(からたち)が残る
川越の武家屋敷は 枳殻の生垣でなくてはならぬ という
決まりがあったそうだが 枳殻には鋭い刺があることから
外敵の侵入を防ぐ目的で生垣によく使われたそうである

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永島家住宅(旧武家屋敷) [めぐり逢い]

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川越キリスト教会を過ぎて 気ままな散歩で出逢ったのが
上部フォトの案内板 永島家住宅(旧武家屋敷)とあった
永島家住宅は 小江戸川越に残る江戸時代後期の武家屋敷で
川越の中で江戸時代からの状態で残っている 唯一の武家屋敷
土曜日は公開されていて 庭園を散策することが出来るというが
あいにく雨が降り出したこの日は木曜日 散歩を続けるかと
そんなことを思いながら歩いていた

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川越キリスト教会 [めぐり逢い]

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旧山崎家別邸を出て蔵造りの街並みの反対方向 東方向へ向かうと
出逢ったのはこの煉瓦造りの建物 倉庫化と思ったが
屋根の上には十字架が 日本聖公会川越キリスト教会である
英国系のプロテスタント教会で 始まりは明治11年(1878)
この建物は 明治の川越大火で消失後の大正10年(1921)に再建
されたもので 川越市内のレンガ建築の中で一番古い建物で
130余年の歴史があり 建物の設計は立教大学にある
「立教学院諸聖徒礼拝堂」も手がけたウイリアム・ウイルソン
立教大学同様にレンガ造りで 所々にあしらわれた焼きムラが
あるという 川越の歴史のなかに点在する 異国情緒が珍しい

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川越老舗の別邸を後に [めぐり逢い]

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商人の街川越の老舗菓子屋「亀屋」の 山崎邸の別邸を巡って来た
これまでに日本家屋は幾度となく観て来たが 商人の隠居場所としての
家屋 高級資材などをふんだんに使用しているのは同じだが
時代の差もあると思うが 装飾の美しさを多用している
そんな感じを至る所で感じる今回の山崎邸
武士や文化人とは違う美の意識の表現 そして色彩を
美しさを感じたのが 今までと違う日本家屋であったと思う
江戸時代から明治時代へと 大きく変わりゆく世の中が
生活面での変化にも表れていることが良く分かる
「江戸時代を感じさせる町」小江戸のなかでも 江戸に一番近い川越
「江戸のように栄えた町」を感じさせる 江戸離れした街でもあった

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歴史が通過する瞬間 [時空]

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突然 目の前に現れた明治時代の光景である いや 大正時代か(?)
旧山崎邸別邸関係者の演出と思えるような光景だが
それとも 川越市の演出 あるいは昔の 出で立ちに着込んだ
観光客の一行なのか 今でも解らないのだが
日本家屋でのタイムゾーンに入った感じである
毎日散歩して 体を動かしていることへのプレゼントなのかも
知れないのだが 微妙である 偶然にしては‥‥である

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山崎邸 茶室と茶庭 [ブラボー]

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旧山崎家別邸内に在る茶室である 設計者である保岡勝也は
「茶室と茶庭」を出版するほど和風庭園に造詣が深く 山崎家別邸の
庭園設計でもその知識を発揮している 和室の廊下から見渡すと
なだらかな高低差のある庭が広がり 石灯篭がアクセントとなり
木立の先に建つ茶室が風情を添えている この茶室は
京都仁和寺の我前庵を写したとされる2畳半台目の茶室だというが
中には入れない 保岡勝也氏は「茶室と茶庭」を出版しているという

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時の流れのなかで [気ままに散歩]

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最近 日本家屋を観ることが多いのは 最近の住宅事情が
日本家屋と違い 大量生産できるシステム そして
工期が短縮され 利益を追及するようになってきた理由もあるが
日本家屋のこの落ち着き そして先人たちの思いが詰まった
この美しい空間のなかに居ると 日本人である自分を
意識するのであるが ここから離れると意識外
そんな気がするのであるが
こうして 度々そう思えることが良い気がするのである
世のなかに触れ初めて今日までの変化が 大き過ぎると
改めて感じる時間であった

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市松張りと目透かし張り [な~るほど]

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数寄屋造りの和室は 客室と居間に良材が使用され
主な柱は全て磨き丸太が使用されているという
杉の磨き丸太や絞り丸太 杉丸太は床の間の装飾的な柱であり
「床柱」に使用され その個性的な風合いから 広く愛用される
畳廊下の天井は縁側が米杉の市松張り 室内側が米杉の目透かし張り
市松貼りとは 隣り合う素材を90度ずつ回転させて貼る方法で
目透かし張りとは 板などを張る場合に 隙間を設けて
張りつける方法のことで  隙間ができることになり
空間を広く感じさせることができるようになるという

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フォトの内部で休憩 [ちょっと一息]

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洋館部と和館部からなる和洋館並列住宅の旧山崎家別邸
洋館部だけが2階建となっている 洋館の西側のほぼ中央には
玄関ポーチが設けられ 客人を迎える正式な入口となっている
間取りは 洋館部は1階が玄関ホールを挟んで左右に客室と土蔵が配され
庭園側にベランダが設けられた客室 その奥に食堂が続く
フォトは茶室と庭園を望む板の間で 開放感のある部屋である

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旧山崎家別邸 和館部 [な~るほど]

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旧山崎家別邸の建物は 洋館部と和館部からなる和洋館並列住宅
和館部は平屋で 庭側に広縁付の客間と居間 サンルームが並ぶ
北側には台所 浴室 便所のような水回りの部屋が集められ
女中室 内玄関 児童室が配されていて これらの部屋のうち
客間と居間は質の高い材料とデザインが施され
もっとも力の籠もった数寄屋建築である
旧山崎家別邸は 川越の近代史において重要な役割を果たした
山崎嘉七と我が国最初の「住宅作家」と評されている
保岡勝也の出会いによって誕生した傑作であるという

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日本家屋の閑寂で潤い [ビューティフル]

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和室の室内である 和風の落ち着いた雰囲気を味わえるが
丸窓や和風のデザイン 独特な日本人の美意識である
日本の伝統の数寄屋造りは 侘と寂は日本人の持って生まれた
美的理念とでもいうものであり 隠居した山崎嘉七氏が求め
簡素のもつ美しさと 古びた味わいのあるこの空間
物静かで深い趣のなかで ひっそりと生活したのであろう
日本家屋は 閑寂で潤いのある自然美と共に過ごし
日本人の究極のこころ 精神に基づいていると思われるが
それを美しく表現できるのも また素晴らしいことである

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色褪せぬステンドグラス [ブラボー]

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アールヌーボーの甘さを残すデザインで
色ガラスが織りなす絵模様である
嘉七の隠居所としてだけでなく川越の私的迎賓館としての
性格を持つ館内は 和風・洋風の接客室が機能的な動線で結ばれている
この色鮮やかなステンドグラスも特徴の一つで
2階へと続く階段には 小川三知の作品である「泰山木とブルージェ」
泰山木の花の白さと鳥の赤い冠羽が印象的である
他にも多くのステンドグラスがあり 階下には水辺の植物が
各客室の窓のステンドグラスは別府七郎による図案だという

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旧山崎家別邸の特徴 [な~るほど]

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旧山崎家別邸の敷地面積は 約2,300㎡ 延べ床面積250㎡ある
フォトは邸内に展示されていた 別邸の模型である
母屋の南側には 広々とした庭園が広がり 庭の東側に有楽如庵の
写しと伝わる茶室がある 母屋は木造モルタル仕上げ洋風屋根葺の洋館で
和室棟にしっくりと溶け合うデザインとなっている
洋館の1階は吹付モルタル塗りで 2階は細い横目地の磨き壁で
模型でも すっきりとした仕上げが見て取れる
壁にはステンドグラスが2面配置されている

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川越の私的迎賓館 [な~るほど]

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五代目の山崎嘉七氏の隠居所として建築された別邸は
陸軍大演習などで川越付近に訪れた皇族方が宿泊したこともあり
現在の庭には 昭和4年に川越へ訪れた李王垠(りおうぎん)殿下の
お手植えの松が残されている 李王垠は 大韓帝国最後の皇太子で
韓国併合後には王世子として日本の王族に列した
このフォトのなかには お手植えの松は存在しない

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山崎家別邸の設計者 [な~るほど]

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山崎家別邸への入り口である 邸内はどのような造りなのか
期待が膨らんで行く 山崎家別邸の設計は 以前 大正7年(1918)に
手がけた第八十五銀行本店(埼玉りそな銀行川越支店)の
保岡勝也が担当した 保岡は東京帝国大学で辰野金吾教授
(日本銀行本店・東京駅を設計)に師事し 建築学を学んだ
卒業後は 現在の三菱地所に勤め 技師長にまでなったが
中小住宅に関心を持ち 退社後 住宅や数寄屋設計者として活躍した

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もうひとつの川越の空間 [時空]

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入口を入ると広い庭が続く 今までの蔵造りの街並みの
雰囲気が突然消えうせ 閑静な空間が広がるのを感じる
その静けさは 私の住む場所と同じように 音の無い世界である
旧山崎家別邸は 平成12年に主屋・茶室・腰掛待合が市指定有形文化財に
平成18年に 建物部分が市へ寄贈され 平成23年2月には
庭園が国登録記念物(名勝地)に登録されたという
また 令和元年9月に母屋が国重要文化財(建造物)に指定され
(茶室・腰掛待合は附指定) 旧山崎家別邸の庭園は
和館・洋館の建築とともに 保岡勝也が設計した茶室を含む
和風庭園の事例として価値があると認められ
「造園文化の発展に寄与しているもの」として高く評価されている

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旧山崎家別邸 [めぐり逢い]

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仲町の交差点の前に在る亀屋 山崎美術館 その裏手に在るのが
老舗菓子屋「亀屋」の五代目である 山崎嘉七氏の隠居所として
建てられた 旧山崎家別邸である 山崎家は信州高井郡下笠原村
(現在の長野県中野市)出身であることは以前触れたが
四代目嘉七氏は 明治11年(1878) 第八十五国立銀行の創立に関わり
川越経済界を主導する存在であったという その別邸の入口である

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「陶舗やまわ」の店頭 [ビューティフル]

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蔵造りの街並みに面したウィンドーである
「陶舗やまわ」では この陶器店で陶芸作家の作品から
生活の中で潤いをもたらす普段使いの器まで幅広く取り揃え
のアクセスも抜群で 見世の前には大きな壺が目を引く
私もこの壺に魅かれて立ち寄り 構えてシャッターを
観光地であるが故に このお店が陶器屋とも思わずに
蔵造りの街並みのイメージに どっぷりと浸かっている
そんな感覚であった この店は瀬戸物屋として明治38年(1905)
東京の王子で創業し 大正9年(1920)に川越に出店したという
川越市は100年前 埼玉県で最初に市となった場所で
繁栄していて 川越に店を出したという
明治22年(1889)に成立した川越町は 明治26年(1893)3月17日に
発生した大火により 中心街のほとんどが焼失
その後 蔵造りの商家が建てられ 現在のがたが残っている
今から131年前のことである
 ぺ
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陶器屋「陶舗やまわ」 [ブラボー]

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前回のフォトは 陶舗やまわの見世蔵である
現存する入母屋形式の土蔵造りとしては日本で最大級だというが
立ち並ぶ見世蔵に 実感は乏しいくらいであるが
振り返えってフォトを撮るには 充分な貫禄を持つ
このように5つの観音開きの窓を持ち 4段の厚く長い
軒蛇腹の上に大きな千鳥破風が南面している また
大屋根降り棟 鬼瓦が隅棟に接するあたりを見ると
そこに鬼門を見すえる6寸ばかりの瓦製の鍾馗様の姿がある
剣を右手に豊かな黒鬚を逆立て 屋敷全体をその小さな体で
精一杯守護するかのようで 愛らしい姿である

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風格の川越の見世蔵 [めぐり逢い]

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見世蔵(みせぐら)は江戸時代以降に発展した商家建築の様式の一種で
土蔵の技術を応用し 店蔵(たなぐら・みせぐら)とも表記する
店舗・住居として使うことを主目的とし 耐火性能面では妥協がなされ
商店部分の間口や住居部分の窓などの開口部が設けられている
内部の間取りなども通常の商店建築に準ずる
川越の見世蔵 土蔵の特徴は二階建で平入りとし 下屋庇をもつ
庇は1階の外壁面より三尺程出ていて 庇上が三尺程下がるのは
火災のとき 屋根に上がりやすくするためだという
棟が背の高い箱棟なのは 関東の土が悪く瓦の質が劣るため
瓦を高くしないと 雨がしみこみ棟木を腐さらせてしまうのと
「隣の家より 1寸でも高く」という 江戸っ子の思いに近い
商人の見栄をも満たす心意気がとも 言えるかもである

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川越の無空に 鬼瓦 [ブラボー]

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松崎家住宅の箱棟の両端には鬼瓦が配されている
鬼瓦は奈良時代頃より発達し 寺院建築を中心に普及したという
室町時代以降は 激しい形相が強い力の表れと考えられ
角は徐々に大きくなり 鼻・口も大きく両側に開き
その表情は激しさを増していき 江戸時代以降
民家建築に採用されるようになると 鬼面だけでなく それぞれの
家紋や防火のためのまじないとして「水」の字 富を願う
「福槌」を入れるなど さまざまな意匠が取り入れられたという
一般民衆の家にも鬼瓦を取り付けるようになる一方で
恐ろしい形相で隣近所の家を睨みつけて見えるため あまり印象が
良くなく 敬遠されるようになり その代りに家内円満の
願いをこめた福の神を模したり 防火のために水という
鬼の顔ではない鬼瓦が飾られるようになってきたという

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