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建立は石州(島根県)辺り [な~るほど]

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光西寺は 永禄九年(1566)に石州浜田(島根県浜田市)に
恵誓法師を開基として寺が建立されたのに始まるが
天保七年(1836)藩が 幕府の政策に違反した日本海の
竹島を根拠地として 外国との貿易(当時は禁制)を行い
徳川家の親藩の故をもち 奥州棚倉(福島県)に左遷転封され
家臣ともども光西寺も移転したが 幕府は藩主松平周防守康英公の
英才と外交的手腕を重視し 老中職に任じ 川越城主に転封
慶応三年(1867) 光西寺も家臣ととも川越の養寿院門前に移転
大正の末に 現在地に小堂を建立したという

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喜多院光西寺 [めぐり逢い]

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さて 川越駅から喜多院へ歩いて向かう時に 途中
出逢ったのがこのお寺 光西寺である
浄土真宗本願寺派 光西寺 この時は理解していなかったが
この光西寺 その経緯が面白く 藩についてきた寺
ということで 士族寺とかお伴寺とよばれているという
光西寺の建立は石州浜田(島根県浜田市)である
そのお寺が 川越のこの地に存在する その理由とは

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喜多院入口「どろぼうばし」 [めぐり逢い]

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「歴代住職墓所」 そして「松平大和守家廟所」の南側
喜多院へと入る場所に架かるのが「どろぼう橋」である
この物騒な名前の「どろぼうばし」の由来が面白い
昔 この橋は一本の丸木橋であり その頃の話である
ここ喜多院と東照宮 の境内地は御神領で 江戸幕府の御朱印地でもあり
川越藩の町奉行では捕えることが出来ないことを知る一人の盗賊が
町奉行の捕り方に追われ この橋から境内に逃げこんだ しかし
盗賊は寺男たちに捕えられ 寺僧に諭され悪いことが降り掛かる
恐しさを知り 盗賊は厄除元三大師に罪を許してもらえるよう祈り
真人間に立ち直ることができた そこで寺では幕府の寺院奉行に
その処置を願い出たところ 無罪放免の許しが出た その後
町方の商家に奉公先を世話されると 全く悪事を働くことなく
まじめに一生を過ごしたという この話は大師の無限の慈悲を
物語る話として伝わっており それ以来この橋を
「どろうぼうばし」というようになったと言われる

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歴代住職墓所 正面 [ブラボー]

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こちらは慈恵堂(本殿)の隣 慈眼大師天海をまつる御堂慈眼堂の
後方に在る歴代住職墓所の入口 正面である
中心には天海僧正墓碑がありるが 天海の墓はこの他
日光の輪王寺の慈眼堂 大津市坂本の慈眼堂
また元の東叡山寛永寺の境内で 今は上野公園内の一角
西郷さんの像の後方に 遺髪を納めた毛髪塔がある
天海僧正は徳川家にまつわる場所で 常に登場するが
本能寺の変の後に 落ち武者狩りに遭い 死んだという
明智光秀が実は生き延びており その後 徳川家に仕えた僧侶
南光坊天海であったとされる異説がある 今満開の
彼岸花と同様に 南光坊天海 怪しい存在である

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板石塔婆 「暦応の古碑」 [ブラボー]

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フォトのなかに在る先の尖った中央にそびえる2枚の板碑
これが現在の卒塔婆につながった板石塔婆
向かって左側にたつのが「延文の板碑」
向かって右側の板碑が「暦応の古碑(りゃくおうのこひ)」
暦応の古碑は 高さ232cm 最大幅61.5cm 厚さ7cm
「歴応五□□□卯月十五日」の銘文がある
全面下部には48名の歴代の喜多院住僧と50名の法名が刻まれ
喜多院歴代の住職の名前が載っている資料は 暦応の古碑が唯一であるという

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喜多院 歴代住職の墓 [時空]

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喜多院本堂である慈恵堂の横 そして小高い丘の上の慈眼堂
その背後に在るのが 喜多院 歴代住職の墓「歴代住職墓所」
このように墓所内には 僧侶の墓塔として使われる丸みをおびた
無縫塔や石仏が並び 静かな佇まいの空間である
ここの中央にそびえる2枚の板碑 板碑は鎌倉時代~室町時代前期に
死者を供養するためにつくられ 主に関東を中心に分布
この板碑は 現代の卒塔婆につながるものであるという

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川越藩4代藩主 松平斉典 [な~るほど]

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松平大和守家の川越藩主のなかでも 北側の玉垣内
一番左に眠る川越藩4代藩主 松平斉典(なりつね)は
「好学の名君」と呼ばれ 藩儒・保岡嶺南に命じ
藩校の博喩堂(はくゆどう)を開設 保岡嶺南は川越版「日本外史」を
刊行した 国学では林述斎の高弟で古事記偽書説で知られる
盲目の医師・沼田順義を藩に招いた また松平斉典は西大手門に
目安箱を置いて衆庶の声を藩政に取り入れた
世を治め 優れた手腕の持ち主の経世家(けいせいか)として
高名な海保青陵は川越城下に生活 川越絹や煙草など
特産品開発を指南 川越絹は川越絹平(武士の着る袴地)や
川越斜子(晴れ着の羽織地)として知られ 秩父絹や青梅縞とは
異なる高級ブランド織物であったという

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結城秀康 御家門の家柄  [な~るほど]

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松平大和守家は 徳川家康の次男「結城秀康」の五男「直基」を
藩祖とする御家門の家柄で 結城秀康は
豊臣秀吉の養子となり 羽柴秀康を名乗ったが その後
結城晴朝の養子となり 結城の通称で呼ばれ 徳川家康の三男の
母親が三河国の名家出身である秀忠が
実質的な世子として 処遇されることになる
徳川家康の次男結城秀康の五男 直基を藩祖とする御家門
松平大和守家は 7代100年にわたり川越藩主をつとめ
最大で17万石を領していたという

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川越藩と徳川・松平家 [な~るほど]

喜多院 松平大和守家廟所.jpg
松平大和守家廟所の墓所内の5人が眠る五輪塔である
フォト上の正面の玉垣内に4基 下の門脇に1基がある
7代100年にわたり藩主を務め 五人が眠る廟所
その藩主名と墓石位置は北側の玉垣内から
①松平朝矩(とものり)一番右(手前) ⓶松平直恒(なおつね)2番目
③松平直温(なおのぶ)3番目 ④松平斉典(なりつね)一番左
⑤松平典則(つねのり)  なし ⑥松平直侯(なおよし) 南側の玉垣内
⑦松平直克(なおかつ)  武蔵国川越藩7代藩主であったが
後に所領の上野国前橋に前橋城を修復して移った

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松平大和守家廟所・史跡 [めぐり逢い]

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廟所はそれぞれ石門と五輪塔 石碑(神道碑)などからなるが
関東大震災などで被害を受け 近年には石門の屋根や石扉が外れ
五輪塔の建つ基壇がゆがみ 一部の五輪塔は傾くなど傷みが進み
修復を望む地元の有志らが寄付を集め
行政の補助を受け 26年度から保存整備工事が始まり
5代廟が当初は独立廟だったことが明らかになったという
そのため 8代までは西側に廟所を付け足して増築
8代の西は堀になるため 10代の廟所は
4基の向かいに建てたとみられるという

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亀趺碑(きふひ)大亀の石台 [ブラボー]

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入口に建つ石柱と その前に在るのは亀趺碑(きふひ)てある
石台の一種で 石碑を載せる石台を大亀の形にしたもので
もとは中国で 江戸時代に日本でも取り入れられたという
功績や功徳などを刻んだ石碑を載せる石台だが 墓石を載せる
ものもあるとい 亀趺の亀は龍の九子のうち龍になれなかった一子で
巨大な亀の形に似た想像上の霊獣だとされている
中国では 亀は万年の寿齢を保つ霊獣とされ 石で亀の形を作り
その碑が永遠に後世に残ることを念じて建てられるという

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喜多院の南隅の廟所 [めぐり逢い]

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廟所の入口には このように石柱と亀の形をした石台があり
また お墓の入口にはこのように門が在る
廟所の造営は 5代朝矩(とものり)が前橋から川越に移って亡くなり
急な廟所の造営に迫られ 喜多院に願って造られたという
通常 廟所は一人の殿様は独立したものだが
敷地が狭かったため このような形になったという
同家5〜8代と10代の5藩主の廟所である

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「引越し大名」松平大和守家 [な~るほど]

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松平大和守家の家紋である 松平大和守家は
徳川家康の次男・結城秀康を家祖としていて
5代朝矩(とものり)のときに姫路から前橋の地に入封したが
利根川の氾濫などによる前橋城の崩落や大火などにより
ここ武蔵国川越に移封し 以後100年間は川越藩前橋分領となり
前橋は藩主不在の時代を迎える 前橋市朝日町にある
孝顕寺と大手町にある前橋東照宮を伴い 12回もの転封を
していて 「引越し大名」という呼び名でも知られる
ここには5人の藩主(朝矩・直恒・直温・斉典・直候)が葬られている
川越城はこの後 順次巡って行く

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松平大和守家廟所 [めぐり逢い]

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その慈恵堂の背後に在るのが 松平大和守家廟所である
石の柵に囲まれた大きな五輪塔が並ぶこの場所は
1767年明和4年から1866年慶応2年まで川越藩主であった
松平大和守家歴代藩主の墓がある廟所である
松平大和守家は 徳川家康公の次男結城秀康の子直基を藩祖とし
松平大和守が川越藩主であった 7代約100年の間に川越で亡くなった
5人の藩主(朝矩 直恒 直温 斉典 直候)が葬られている
喜多院の北側には 川越城本丸御殿が在る

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徳川家康と天海僧正 [な~るほど]

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渡廊下と慈恵堂(本堂)の接点 そして慈恵堂背後からのフォト
徳川家康は江戸の町を作り上げる上で 天海僧正の知見を頼り
陰陽道の知識を駆使した天海僧正は 江戸は本拠地として
(後に東京となるこの地) 相応しいと定め 江戸城と城下町周辺の
設計においても 多大な貢献をしたと言われている
また鬼門封じとして 邪気の通り道に社寺を配置した
その天海の進言により家康公は 関東の天台宗寺院はすべて
喜多院・天海のもとに属することとなった
「気は長く 勤めは堅く 色うすく 食細くして こころ広かれ」
108歳まで生きた天海大僧正が残した言葉である

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第27世住職 天海僧正 [な~るほど]

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おっと待った ここは武家屋敷ではなく 天台宗の寺院である
江戸幕府との関わりの強い喜多院は 平安初期の天長7年(830)
淳和天皇の命で円仁(慈覚大師)が 天台宗の教えを
東国に広めるため 無量寿寺として開創したのが始まり
その後 衰退した無量寿寺は慶長4年(1599) 徳川家の尊崇が
厚かった天海僧正が第27世住職として入寺し 寺号を喜多院と改めたが
徳川家康公と天海僧正の関わり始めは
諸説あって 明らかになっていない謎めいた人物である

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庫裡と慈恵堂の架橋 [時空]

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フォトは 家光「誕生の間」 及び春日局「化粧の間」の
拝観入口の庫裡前で撮ったもので 均衡のとれた全体的な美しさが
お判りいただけると思う 右側が庫裡で 左側が慈恵堂へと続く
どっぷりと江戸の時空の中に入り この廊下を進んで行くと
肩衣袴(かたぎぬばかま)の数人の武士が
架け迫って来る そんなバージョンに入った気分である

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慈恵堂(本堂)への渡り廊下 [ブラボー]

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慈恵堂(本堂)と客殿をつなぐ渡り廊下 この西側(右)には
紅葉山庭園が在る 喜多院は寛永15年(1638)1月の川越大火で
現存する山門(寛永9年建立)を除き 堂宇はすべて焼失
時の3代将軍徳川家光公は 堀田加賀守正盛に命じ
直ぐに復興にかかり 江戸城紅葉山(皇居)の別殿を移築したのが
現在の客殿・書院・庫裡 その他慈恵堂 多宝塔 慈眼堂
多宝塔 慈眼堂 鐘楼門 東照宮 日枝神社などの
現存の建物を数年の間に相次いで再建 この渡り廊下も
その時に造られたものであろう
この渡り廊下の西側(右)には紅葉山庭園が在る

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客殿と慈恵堂を結ぶ [時空]

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さて 客殿の徳川家光公誕生の間から 葉の生い茂る
枝垂れ桜の木を観ていたのだが こちらはススキのフォト
これは最近出掛けて行って撮ったもので
今年の残暑の厳しさに控えていた郊外散歩を
再開した時のもの 暑さは厳しかったものの
フォトを撮っている時は あまり感じない
フォトは庫裏から 慈恵堂(大師堂 潮音殿)へと向かう
渡り廊下の辺りだが これからそちらに向かう

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和風のなかの季節感 [時節]

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客殿 (徳川家光公誕生の間)より紅葉山庭園を望む
もっとも 家光公幼少の頃は この光景は観ておらず
家光公お手植えの枝垂れ桜も 後に植えられたものであり
風景の中で 歴史は断片的に結びついていて
それを愉しんでいる 或いは客観的に捉えているのが
我々であり 現在の喜多院の存在でもある
最近は生活の中で 四季は巡っているものの
和風とともにの 四季との出逢いは少なくなったと感じる

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家光お手植えの枝垂れ桜 [ブラボー]

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喜多院の客殿の前に広がる紅葉山庭園 その中央に残されるのが
「徳川家光お手植えの桜」 川越大火で山門と経蔵以外の
伽藍を焼失するが 徳川家光の命で移築した後に
家光が喜多院を訪ね 植えた桜であろう
この枝垂れ桜は ソメイヨシノより数日早く開花するという
小ぶりな桜だが ピンク色の花を付け華やかに彩る
三代将軍御手植え桜 二代目と呼ばれる枝垂れ桜である

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客殿の前の縁側 [ブラボー]

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書院から庫裡へ そして客殿へと向かう
家光公誕生の間 その客殿の前の附渡廊下である
附渡廊下の前に広がるのは紅葉山庭園 江戸城を思わせる
広い空間であるが 吹く風は川越のものである
徳川幕府が残したものは 堂々としたその広さであり
きめの細かい装飾や 自然の織り成す美しさであり
その江戸を受け継ぐ風情が こうして現在も受け継がれる
江戸時代の香りを色濃く残す徳川家とゆかりの深い寺であるが
寺として この庭園の存在がどのように機能したのか
美しすぎるほどの庭園である

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江戸の風をも移す庭園 [ブラボー]

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こちらも慈恵堂へと続く渡り廊下から観た「紅葉山庭園」
その先には種の橋が見えるのだが 何処へ通づるのかは
解らない 「紅葉山庭園」は遠州流庭園で三つの縁石
丸・菱形・四角が見事に調和した整然とした庭であるというが
広々と構えている庭園の どれを指しているのかは
確認できなかったが 客殿を江戸城から移築した際に
その庭園を再現したものであるといい
江戸の雰囲気が そのまま流れているようである

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家光公誕生の間内部 [時空]

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客殿の徳川家光公誕生の間のフォトである
撮影禁止のはずでは と思われる方もいると思うが
これは喜多院のパンフレットからのもの
部屋は広い部屋が6室あり 展示のためオープン
広い そして威厳のある空間が広がっていて 天井は
このように 彩色による81枚の花模様があるが 誕生の間であり
将軍の間ではない 徳川家光は 父は似代将軍徳川秀忠
母は崇源院(お江の方) 15人の徳川将軍のうち (父親の)正室の子は
家康・家光・慶喜の3人だが 御台所が生んだ将軍は家光だけである
お江の方の母はお市の方(織田信長の妹) 近江の戦国大名
浅井長政の三女で 歴史の空間が詰まっている
春日の局の影が 揺れているようである

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貫禄と落ち着きの客殿 [ブラボー]

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拝観のレイアウトは 庫裡・寺務所を抜け 左側が書院
直進すると客殿であり 徳川家光公誕生の間が在る
左側は庫裡の一部が在り 
その先には 左に表玄関 右側には「紅葉山庭園」が望める
そして慈恵堂へ続く渡り廊下が在る フォトは渡廊下からの
客殿である その客殿へと向かう

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客殿 (徳川家光公誕生の間) [めぐり逢い]

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こちらは客殿 (徳川家光公誕生の間)の板敷きの通路 附渡廊下である
客殿は 12畳半2室 17畳半2室 10畳2室になっていて
天井には彩色による81枚の花模様があり 湯殿と厠も設けられ
江戸城にあった頃は 厠では毎日検便され 徳川家光の
健康状態が確かめられていたという 12畳半のうち一室が上段の間で
床と違い棚が設けられ この上段の間は
この建物が江戸城紅葉山(皇居)の別殿にあった頃 3代将軍徳川家光が
ここで生まれたことから 「徳川家光公 誕生の間」と呼ばれている

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幽玄思想の枯山水 [な~るほど]

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書院前に広がる遠州流の枯山水 川下には2本の石橋が敷かれ
川下になるに従い 流れが穏やかになっていく
枯山水(かれさんすい)について 昭和期の日本の作庭家・重森三玲
(しげもり みれい)は 伝統的に日本の庭園は自然的表現するもので
池泉を海の景として見立てるなど 象徴主義的な思想があったとして
これが極度に発達した姿が枯山水であるという つまり
自然を実体として表現することなく砂を海 石組を滝などと見立て
そこに秘められた世界観を創造する幽玄思想があるとする
そして庭園構成として重要な役割をもつのが 空白の地面であり
空白が広いほど広大な空間を表現できるとし こうした
幽玄美と空白美により形成されるのが枯山水の特徴であるという

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滝石組の 「枯滝石組」 [めぐり逢い]

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枯山水の庭園では実際に水を流すことはないが 石組だけで
滝が流れている様子を表現し このような枯山水の滝石組は
「枯滝石組」呼ばれ 滝石組(たきいわぐみ)には実際に水を落とす滝もある
枯滝石組として見ると 中央の立石は滝石であり 滝壺には
大きめの丸石で飛沫が表現され ここから段差は低いものの
さらに二段落とされた「三段落ちの滝石組」となる
別の場所の曲水の中程には 青石による見事な立石が控えている

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三尊を兼ねた枯滝石組 [めぐり逢い]

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日本庭園の石組の基本パターンには 仏像の三尊仏のように
中央に大きな石を その左右に小ぶりの石を組む方法があり
滝や護岸 中島などの石を組む あらゆる場所で使われている
書院前から眺めると「中心の離れ五石の石組は四方見となっており」
と表現されているが 三尊石組を兼ねた枯滝石組にみえる
落ち着きのある 見事な石組 少し時間を費やし
歴史のなかで造られた庭園に浸っている

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曲水とは「曲水の宴」 [な~るほど]

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bk 庭園は「曲水の庭(きょくすいのにわ)」と「轉合の庭」からなる
曲水とは「曲水の宴」からきている言葉で
平安時代に流行した貴族文化で 参加者は曲水の庭園の上流より
流される酒盃が 自分の前を過ぎる前に お題に沿った
和歌を作って詠み お酒を頂いてから盃を次へ流す
という遊ぶ庭のことで これを枯山水で表現している
「枯山水」(かれさんすい)とは 水を一切使わず砂や石だけで
山や水の景色を表現した日本庭園のことである

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