二天門からの展望所 [時空]
二天門から石段を登ると見えるのが ずらりと並ぶ石灯籠
ここは展望所と言われ その眺めは 天上界から下界
(人間の住む世界)を眺望できる場所と言われていて
日光山輪王寺の大猷院は寛永の造替を行なった徳川家光の廟所を
管理する僧院 別当所の龍光院前に建ち並ぶ石灯籠群は
10万石以下 二天門から先へと進めなかった大名の奉納で
大猷院への門を飾る色鮮やかな装飾とはかけ離れた
異様な世界にも見え 身の引き締まる思いである
裏面の風神と雷神 [ブラボー]
二天門の裏面には風神と雷神が安置されている
この2体はもともと陽明門の守護神として東照宮に置かれていたが
大猷院に移され このように門の裏手に置かれている形となる
東照宮から大猷院に移されたのは 明治維新の神仏分離令
もともと日光山は 日本古来から人々の信仰が根付いていて
神仏習合の聖地であり お寺と神社が一体となった聖地だったが
神仏分離令の影響を受けて 「二社一寺」と呼ばれるようになった
四天王の一体 持国天 [な~るほど]
緑色の顔をしている方が持国天も 帝釈天を守護する四天王の一体で
東方を護る守護神として造像される場合が多く
仏堂内部では本尊の向かって右手前に安置されるのが原則である
その姿には様々な表現があるが 日本では一般に革製の甲冑を
身に着けた唐代の武将風の姿で表されるという
持物は刀の場合が多く 例えば胎蔵界曼荼羅では体色は赤く
右手を拳にして右腰に置き 左手に刀を持つ姿で描かれるという
二天門 持国天・増長天 [ビューティフル]
二天門に祀られている像は 帝釈天を守護する四天王のうちの2体
緑色の顔をしている方が持国天 赤い顔の方が増長天である
しかし赤い顔の増長天は少なくとも約240年間
四天王のなかの「広目天」であると 誤った名称で
呼ばれていたことが 近年 半世紀ぶりに二天門の
修理した際に判ったという さてその増長天だが
四天王の一体で 南方を護る守護神として造像される場合が多く
仏堂では本尊の向かって左手前に安置するのが原則である
その姿には様々な表現があるが 日本では一般に革製の甲冑を
身に着けた唐代の武将風の姿で表されるという
持物は戟(げき・ほこ)の場合が多く 例えば胎蔵界曼荼羅では
体色は赤肉色 右手は右胸の前で剣を持ち 左手は拳にして
右腰に置く姿で描かれ そして増長天の前には
鬼形の従者がいて 両手で剣を持ち跪いているという
家光の側近・梶定良 [めぐり逢い]
幕府は慶安1年(1648)頃 目付を1人在勤させ 日光東照宮の
警備と山中の監察に当て その後3代将軍徳川家光の没後
徳川家光の8歳年下の側近・梶定良(かじさだよし)が
大猷院廟定番となり 日光山を管轄 山内の警護と
大猷院(家光の諡号)に霊膳を捧げるのを日課とし
梶定良没後に目付在勤制を廃し 日光奉行を創設した
梶定良の位牌は龍光院の仏間に祀られている
法名は照光院で 5月に「照光院殿御忌」が執り行なわれるという
大猷院別当所 龍光院 [な~るほど]
仁王門と二天門の間から脇に分かれる参道の先にあるのが別当所
(大猷院を管理する僧院)の龍光院だが 残念ながら非公開
龍光院(竜光院)は前面に玄関 背面に台所を付設した客殿で
江戸時代中期の築と推測され 国の重要文化財に指定されている
龍光院の前に建ち並ぶ石の灯籠 日光東照宮には合計123基の灯籠
(江戸時代奉納の灯籠)が在るというが 大猷院の灯籠の総数は
それを上回る312基 182家の大名からの奉納で 龍光院前の灯籠は
10万石以下 二天門から先へと進めなかった大名の奉納で
二天門から石段を上った展望所からの眺めは
ずらりと並ぶ石灯籠を眼下にし 天上界から下界
(人間の住む世界)の眺望といわれている
大猷院 正面の扁額 [ブラボー]
大猷院の二天門 境内で1番大きな門の正面の扁額は
108代天皇「後水尾上皇(ごみずのおじょうこう)」による筆で
186体の彫刻が施されていて この門は入口正面と裏面に
それぞれ2体 計4体の像が安置されていて
左右に持国天・増長天を安置している事から 二天門と呼ばれている
裏面に安置されているのは風神と雷神である
扁額の下方は 極彩色の三手先と見られる詰組で
上層部は極彩色の組物が見えるが 対称的に下層部は
装飾が少なく 上層部に比べれば質素な造りになっているという
荘厳で色鮮やかな装飾 [ブラボー]
大猷院 二天門は2018年に修理修復を終えたばかりで
朱塗りの柱 そして装飾など ピカピカであり
荘厳で色鮮やかな装飾には 驚くばかりである
「大猷院」の扁額を書したのは後水尾上皇で 後水尾上皇の天皇在位中には
徳川将軍家と確執があったものの 家光公が将軍に
就任してからは 良好な関係を築いていたという
第108代「後水尾天皇」は 徳川家康に擁立されて即位した天皇
しかし江戸幕府が確固たる権威を誇示するなかで 朝廷統制により
天皇の権威は次第に失われたが 家康の計らいにより皇位を継ぐも
江戸幕府との関係に悩まされ続けた天皇である
二天門前の奉納灯籠 [時空]
二天門の階段下に奉納された灯籠には 寺社奉行・老中を務めた
松平武元(まつだいらたけちか)で寛延3年(1750)の銘があるという
さらに階段下には松平定行(まつだいらさだゆき=徳川家康は伯父)
老中・松平乗寿(まつだいらのりなが)奉納と重臣が奉納した
灯籠が並んでいるというが どれがそれなのかは不明で
フォトも定かではない 二天門のすぐ前に配されている銅灯籠には
老中首座・酒井忠清(さかいただきよ)と 会津藩主・保科正之
(ほしなまさゆき=徳川家光の異母弟)が奉納したものもある
大猷院霊廟二天門 [めぐり逢い]
銅瓦葺切妻造り 軒唐破風の御影石の御水舎の左手に建つ
大猷院 二天門である 石段の上の高いところに在り
見上げる位置に在る その巨大な門は承応2年(1653)創建の
高さ約11.6m 幅約9.6m 東照宮より華やかさは控えているものの
陽明門より高さが50cm 幅は2.5mほど大きく
陽明門を凌いで 日光二社一寺では最大の大きさであるという
木々から覗く建物 [めぐり逢い]
さて 大猷院の入口にある仁王門をくぐった時から気になるのが
両端のたくましく厳しい形相の金剛力士像 では無く
あの樹齢約400年 槙の木と並ぶ木々の背面にあるこの建物
日光東照宮を思わせるこの豪華な そして
このカラフルな装飾 徳川建築パターンモデルである
もっともこの時点で詳細は解らず 目の前にものが
全てであり この奥に在ることなど 考える術もない
案内板の「水鏡の龍」 [ビューティフル]
これは案内板に載っていたフォトで 鮮明である
龍が水面に映る姿から「水鏡の龍」 残念ながらこの時は
案内板のフォトを撮っても 読むのは後回しである
狩野安信の狩野派は 室町中期から明治初期まで続いた日本画の
最も代表的な流派で 15世紀中頃に室町幕府の御用絵師的な
地位についた狩野正信を始祖とする 狩野安信(かのう-やすのぶ)は
(1614~1685)京都出身 江戸時代前期の画家で狩野孝信の3男で
狩野貞信の養子となり 狩野宗家を継ぎ 寛永年間
(1624~44)に幕府の奥絵師として江戸で中橋狩野家をたてた
御所障壁画制作に参加し 延宝年間には狩野派の最高指導者として
紫宸殿の「賢聖(けんじょうの)障子」を描き
ほかに大徳寺玉林院襖絵「竹林七賢・四愛図」などがある
水鏡の龍 「水飲み龍」 [ブラボー]
これが天井に描かれた狩野永真安信による龍の絵である
この龍が水面に映る姿から 「水鏡の龍」と呼ばれていたもの
徳川家光の遺言を守り 東照宮の御水屋より派手さが控えられて
いるというが 御影石を用いた3本の柱が四隅に寄せ集め
屋根を支え その屋根には唐破風が付くという豪華な造り
基本的な構造は東照宮の水屋と同じであるという
天井には江戸時代初期の狩野派の絵師・狩野安信=狩野探幽
狩野尚信の弟)の墨絵で雲龍が描かれいるが 残念ながら
劣化が激しく判然としないという 水面に龍が
映し出されることから 「龍鏡」(水鏡の龍) 「水飲み龍」とも呼ばれている
軒唐破風の御水舎 [めぐり逢い]
銅瓦葺切妻造り 軒唐破風の御影石の御水舎
銅瓦葺(どうがわらぶき)は 金属材料の瓦で屋根を葺いたもので
切妻とは 2つの面を山状に合わせた形状の屋根である
そして軒唐破風(のきからはふ)たが 破風とは2つの方向に
傾斜する屋根が合わさり 横から見ると三角形の部分のことを言い
その中でも 三角形のてっぺん部分が凸状にむくり
両サイドの端が凹状に反った形状の物を唐破風と呼ぶ
唐破風は構造上必要な屋根の造りを取り入れられるが
屋根の軒先の一部だけを盛り上げるように造るのが軒唐破風
軒唐破風は寺社に多く取り入れられたが
彦根城をはじめとする城の屋根にも用いられ
外観の美しさを表現することから 主に天守の屋根に設けられる
大猷院廟の造営に当たっては 祖父・徳川家康の東照宮より
華やかになってはいけないということで 金と黒を使用した
というのだが この華やかさは何であろう
軒唐破風の御水舎 [ブラボー]
仁王門の先に在るのは御水舎(重要文化財)
九州の大名 鍋島勝茂公が寄進した御影石の御水舎で
四隅に各3本 計12本の御影石の柱で支えられた
銅瓦葺切妻造り軒唐破風の建物 金具は透かし彫り
天井には狩野永真安信の 雲をまとった竜の墨絵が描かれている
この澄江が 長さ2.5m 幅1.2mの御影石の水盤に
映ることから 「水鏡の竜」と呼ばれている
樹齢約400年 槙の木 [時空]
輪王寺の大猷院 仁王門をくぐり 左手にあるこの木
樹齢約400年の槙の木 大猷院は三代将軍の家光の息子
四代将軍の家綱により 1653年に大猷院が建立されたが
その綱公自らの手により ここに植えられたもの
徳川家光は15人の将軍のうち (父親の)正室の子は
家康・家光・慶喜の3人のみで さらに将軍の御内室(御台所)が
生んだ将軍は 家光のみである 家光は父が二代将軍秀忠で
母は浅井長政とお市の間に生まれた三姉妹の末っ子の江(ごう)
江の叔父は織田信長で 乳母はも有名な春日局である
徳川家光公御尊像 御開帳 [な~るほど]
輪王寺の大猷院(だいゆういん)は 徳川幕府三代将軍家光の廟所で
慶安4年(1651) 4月20日江戸城で亡くなった徳川家光は
遺言により寛永寺で葬儀が行われ ここ輪王寺に葬られた
令和2年(2020)は世界遺産登録20周年と
「徳川家光公370年御遠忌」にあたり
これを記念して 大猷院の本殿(国宝)御宮殿に奉安される
「家光公御尊像」を 当初は1年間の御開帳を予定していたが
コロナウイルス感染拡大により 特別公開期間が2022年
3月31日まで延長され 今日この日に観られることになった
コロナ感染により 観光客の激減で境内はひっそりと
カメラを持つ私には 絶好の撮影日となった
その状況は これから掲載されるフォトにも観られる
大猷院廟の造営に当たっては 祖父・徳川家康の東照宮より
華やかになってはいけないということで 金と黒を使用した
重厚で落ち着いた造りになっているというのだが・・・・・
仁王門 吽形像・阿形像 [ブラボー]
日光山輪王寺で 今も聖域的な雰囲気が色濃く残る場所が大猷院霊廟
大猷院の正門 承応2年(1653)築の仁王門 吽形像・阿形像
切妻造 銅瓦葺き 三間一戸の八脚門
三間一戸(さんけんいっこ)とは 一番端の柱と柱の間が三間(約5.5m)
戸が一つの門 神聖な寺域の正式の入口に建てられる仁王門だが
金剛杵(しょ)を手にして釈迦の活動を守るのが金剛力士の役割で
怒りの表情の密迹金剛力士(口を開いた阿形)
怒りを内面に秘めた表情の那羅延金剛力士(口を結んだ吽形)が
大猷院霊廟に仏敵が侵入することを防ぐために立ちはだかる
日光山輪王寺大猷院・仁王門は 左右の袖塀を含めて
国の重要文化財に指定されている
大猷院への石段 仁王門 [ビューティフル]
こちらは大猷院入口の仁王門 金剛力士像を左右に安置し
中に悪いものが入りこまないように置かれた門である
金剛力士は仏法の守護神として寺門の左右
または須弥壇の両脇わきにおかれる1対2神の像(仁王とも)
須弥壇(しゅみだん)とは本尊を祀る場所のことを指し
仏壇などでも仏様を祀っている部分はこの名称で呼ばれ
古来より神聖な山として崇められる須弥山が語源と言われている
三代将軍 家光公廟所 [めぐり逢い]
拝観料を納めて 国宝・大猷院(たいゆういん)へと向かうその正面である
昔は日光山として ひとつの関東の一大霊場だった場所だが
このエリア 二荒山神社の構えとは 異にする空間であり
この一大霊場が 徳川家康の遺言と 天海大僧正の進言を
徳川秀忠が受け入れ 天台宗的な「権現」という神格化を採用し
東照大権現として神仏習合(本地仏は薬師如来)で祀られた
徳川2代将軍・徳川秀忠が元和3年(1617年)に造営し
3代将軍・徳川家光が 現在の形へと大改修(寛永の造替)を
行なった徳川家康の霊廟が日光東照宮
「日光を見ずして結構と言うなかれ」という言葉まで生まれた
壮麗な建築群だが ここ大猷院はその
徳川三代将軍
「家光公」の廟所(びょうしょ 廟所=墓所)である
大猷院霊廟入口 [時空]
輪王寺 常行堂と法華堂 そしてにない堂の先に在るのが大猷院霊廟の建築群
そしてここはその入口 大猷院霊廟 受付である
大猷院霊廟とは 江戸時代に天海大僧正(慈眼大師)が住職となり
山王一実神道(天台宗)の教えで「家康公」を東照大権現として
日光山に迎え祀る「輪王寺」の称号が天皇家から勅許され
さらに慈眼大師(天海大僧正)・三代将軍「家光」公が新たに祀られた
大猷院霊廟は日光山輪王寺にある3代将軍家光の霊廟で
世界遺産に登録されている 大猷院とは家光の法号のこと
祖父である家康を深く尊敬していた家光の 死後も家康に仕える
という遺言により 4代将軍家綱によって建造されたもの
明治の神仏分離を越えて [な~るほど]
明治以前は「日光山」としてひとつに包括された関東の一大霊場であり
明治の神仏分離により 日光は輪王寺・東照宮・二荒山神社の
三カ所が参詣所とされ 輪王寺はこの常行堂と法華堂
そしてにない堂 大猷院霊廟の建築群 中興の祖・天海を祀る慈眼堂などは
二荒山神社西側に在り 少し離れた東照宮の南方の境内には
本堂の三仏堂や寺務所 本坊表門 護法天堂 相輪橖
また神橋近くの二荒山神社本宮に隣接した四本龍寺の旧地には
観音堂と三重塔があり 少し離れて児玉堂がある
また中禅寺湖畔の中禅寺(立木観音)も輪王寺に所属している
輪王寺に属する建物が1箇所にまとまっていないが
常行堂と法華堂の先には 大猷院霊廟の建築群がある
神仏分離の荒波を越えて 現在の「輪王寺」があるという
お堂を繋ぐ「にない堂」 [な~るほど]
比叡山延暦寺の西塔地区にある「にない堂」は 常行堂と法華堂の
2つ同じ形をしたお堂は 渡り廊下によってつながれ法華と念仏が
一体であるという、比叡山の教えを表しているといわれ
輪王寺の常行堂と法華堂の2つの堂をつなぐこの橋廊下は
嘉祥元年(848)に慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)により
比叡山延暦寺の「にない堂」に模して建立されたという
その昔常行堂では 常行三昧(じょうぎょうざんまい)という
仏様の周りを歩きながら念仏を唱える修業が行われていて
その為 内陣は本尊の周りをぐるりと回れる造りになっているという
法華堂 日光山輪王寺 [時空]
常行堂の隣に立つ法華堂である 嘉祥元年(848) 慈覚大師による
創建と伝えら 向かって左側が常行堂 右側が法華堂で
どちらも宝形造総朱塗りの建物で 2つの堂は橋廊下で
繋がっている このような形式を担い堂(にないどう)ともよび
他では比叡山などでしか見られないという
天台宗特有の珍しい建築物だが 公開は常行堂のみ
常行堂 須弥壇と鳥獣座 [な~るほど]
常行堂(常行三昧堂) [めぐり逢い]
二荒山神社 神門の前に建つのは日光山輪王寺 常行堂(常行三昧堂)である
比叡山の第三代天台座主となった慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)は
ここ下野(栃木県)出身の僧で 承和五年(838)唐に渡り
かの地の修行法や密教などを取り入れた
日光山でこの影響を受け建立されたのがこの常行堂と法華堂で
現在のお堂は江戸期のものだが 常行堂の堂内は
古い様式をよく伝えているという
二荒山神社 神門の前に [めぐり逢い]
さて二荒山神社の神苑 そして境内を抜け神門まで降りて来た
今回の日光訪問は 二荒山神社から始まり 次の舞台へと向かう
と云っても 地理的なことは全く理解しておらず
この神門でさえ 二荒山神社との境であることも
理解していない なぜならばこの神門の前方に
朱塗りのお堂が並んでいるからであり
日光山輪王寺 大猷院(たいゆういん) 徳川三代将軍
「家光公」の廟所(びょうしょ)であった
二荒山神社を終える [めぐり逢い]
山岳信仰の地 修験修行の霊場として信奉を集め 鎌倉時代には
源頼朝の保護によって大いに栄え 戦国時代は豊臣秀吉の
小田原攻めの際に 後北条氏の味方をしたことで
領地を没収されるなど一時衰退したが 江戸時代に入ると状況は一変
徳川家康から家光までの3将軍が帰依した僧・天海が日光山の貫主となり
元和3年(1617)には家康をまつる日光東照宮が創建 東照宮の
西隣に移転となった二荒山神社にも 豪華な社殿が造営される
以後も天海開山の徳川家菩提寺・上野寛永寺によって管理され
その威光もあって江戸時代を通じて繁栄が続いた
「日光山」は神仏習合だった江戸時代まで 一帯の寺社群の総称だったが
明治維新後の神仏分離令により 二荒山神社と東照宮
輪王寺に分かれ 日光山は輪王寺の山号となっている
神苑 奥の参道 [時空]
二荒山神社の神苑を巡るのも そろそろ終わりである
古くは「日光三社権現」と称された「日光二荒山神社」
日光三山(日光山)は 日光連山(日光表連山)のうち
栃木県日光市にある男体山(2,486m) 女峯山(2,464m)
太郎山(2,368m)の三山を中心とする山岳の総称で
日光山の起源は 奈良時代後期から平安時代初期の人物
勝道上人が開いた現日光の山岳群(日光連山) 特にその主峰である
男体山を信仰対象とする山岳信仰の御神体ないし
修験道の霊場であった
二荒山神社の境内は東照宮 輪王寺の境内とともに
「日光山内」として国の史跡に指定され 「日光の社寺」として
世界遺産に登録されている 山岳信仰の歴史を持つエリアである