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琴平神社本殿装飾 [ブラボー]

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琴平神社 本殿の扁額と装飾である 琴平神社の
本殿・神楽殿・額殿(絵馬殿)・手水舎は ともに立川流の宮大工
佐藤庄助則久と里次則莊の建築
佐藤庄助則久は 梅郷村山崎(現・野田市山崎)に住んでいた
立川流宮大工で 茂木七郎右衛門家琴平神社や 金乗院鐘楼堂など
息子の佐藤里次則壮とともに 野田を中心に数多くの御輿や
寺社建築を手がけ 明治12年(1879)には 皇居赤坂御所の
御用工事にも携わったという 日本の伝統彫刻は
仏像彫刻と楼閣建築の装飾をする宮彫とに 大きく分けられる
ある
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花の四月から五月の風へ [時節]

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巡り合いと言うのは 人ともそうであるが 今は
自分の知らないことの全てに当てはまるような気がするのだが
実際は時間と資金と生活環境に左右されるのは当然であり
歩くことを主体にフォト散歩をしている
フォト散歩と言っても これを撮りに行くと決めていることは無く
行き当たりバッタリの巡り合いで 目の前に現れる現象が
新鮮なのであり それをどのように撮る時間が愉しく
時には30分待ちは当然であり それでも撮れない
そんな時間もあるが 何せ時間はいくらでもあり
その一瞬は 歩かないと出逢えないのであり
同じ場所でも 新しい出会いが愉しく思えるのである
このツツジは買い物途中で 振り返り撮ったものである
今日で四月も終わり 明日からは五月の風が吹く

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琴平神社の本殿 [時空]

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琴平神社 創建は寛政元年(1789)である
社殿は明治5年(1872) 木造平屋建 銅板葺 建築面積4.0㎡
二代茂木七郎右衛門家宅地隣の境内に南面に建っている
桁行二間梁間一間 前方一間吹放ち 向唐破風造の照り起り屋根を
架け妻入とする 虹梁形頭貫を波紋籠彫の持送で受け
中備の透彫や板支輪など精緻な彫刻で充溢させ 笈形や兎毛通しなど
立川流大工の技量が冴える近代社殿である

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平神社手水舎 [時空]

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琴平神社内の手水舎 本殿南東側に東西棟で建っていて
桁行一間 梁間一間 切妻造銅板葺である
四本柱を内転びに立て 頭貫で固めて木鼻を付し 台輪を廻す
組物は三斗 妻飾は虹梁大瓶束とし 破風に鰭付蕪懸魚を飾る
軒は二軒で屋根に強い照りを付ける 本格的な形式をもつ手水舎
もちろん琴平神社には社務所も無く おみくじなども無い
人影のない境内だが 本格的な造りの手水舎など
神域の空間と向かい合う そんな雰囲気である

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ワンポイントフォト [余談]

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さて 早春に桜の花の成長と共に時を経て来たが
散ってからの時の流れ そして気候の変化は速く もう四月も末
ゴールデンウィークに突入した とは言え 年間ウィークの私には
混雑している観光地へなど出掛ける必要はなく 今日からは
定期投稿の他に 雑記を掲載することにする
私のブログは ひとつのテーマが長く 季節に生まれるフォトが
たまって行く一方であり こうしてワンポイント投稿で
自然の美しさで ブログを飾って行きたいと思う 以後よろしくです

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ニノ鳥居 「象頭山」の篇額 [な~るほど]

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第一鳥居を抜ると狛犬 そして玉垣の後ろにあるのが
この第二鳥居である 創建は寛政元年(1789)と古く
二代茂木七郎右衛門家が 讃岐の金刀比羅宮から分祠したものだが
第一鳥居 そしてこの第二鳥居は当時の物ではないが
第二鳥居の扁額には 少し観難いのだが 「象頭山(ぞうずさん)」
とあり 歴史と風格さえ感じるものである
象頭山とは 分祠した金刀比羅宮が鎮座する山で
山の形が象の頭に似ていることから象頭山と呼ばれている

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琴平神社 新旧狛犬 [ブラボー]

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鳥居の後ろ側には 狛犬が鎮座している(フォト上) ところが
境内に入って直ぐに もう一対の狛犬が鎮座する
こちらの方が風化が進んでいて 寛政元年(1789)の創建時から
鎮座していた狛犬と思えるほどである
兎に角 街中を歩いていても 大きな敷地の家は
そのほとんどがキッコーマンの操業にと関わりのある
そのような名前が多く 一般の家にしても
お醤油関係の仕事に携わっていると思えてしまうほど
貯蔵タンクが あちらこちらで出逢う街なのである
琴平神社への祈りが この街を発展させたのかも知れない

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琴平神社 鳥居前 [めぐり逢い]

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亀甲萬中央研究所のある敷地内の門から鳥居までは
真っ直ぐではないが敷石で結ばれている
前回 門越しに眺めて 10日の参拝開放日に必ず来よう
と思っていただけに 今回は期待と希望が叶えられ
愉しさは増してくる 散歩の醍醐味と言ってよい瞬間であり
未知のエリアから 現実の世界が広がって来る
結局のところ 自身の心の世界の巡りを愉しんでいるのだと思う
ここ 琴平神社の創建は寛政元年(1789) もう235年も鎮座しているのである

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開門の琴平神社境内に [時節]

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こちらは茂木七郎右衛門家住宅正門 その裏側 そして
キッコーマン中央研究所の奥に在る 琴平神社の鳥居である
以前は 閉ざされた門の外から撮ったのだが 今回は
開かれた門を通り 参道からのフォト
今日 10日だけに開門され 参拝が出来る特別な日で
ワクワクする気分であるが 余りにも開放的で そして
他に誰も参拝者が居ないのが 怖いくらいである

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亀甲萬・稲荷蔵前の桜 [時節]

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さて 4月10日 桜満開を過ぎた頃の野田の街中央
野田市郷土博物館にほど近いキッコーマン株式会社 野田本社の
キッコーマン中央研究所の前にあるキッコーマン稲荷蔵
桜は満開である この後方にあるのが 亀甲萬 琴平神社
茂木七郎右衛門家住宅の敷地内に在り 普段は参拝出来ないが
毎月10日 地元の信仰者などに一般参拝され
毎月10日に開門され 今日がその10日である

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書院から庭へ 沓脱石 [めぐり逢い]

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以前の記事で かつて書院から庭へと降りた踏み石であるという
その沓脱石のフォトが気になっていて 今回それを
確かめに行ったのだが 案の定 この大きな沓脱石を
前回の訪問時に撮っていなかった かつて書院から庭へと
降りるために置かれたこの沓脱石 その向こうには
大きな雪見灯篭のある枯池が かつての書院庭園である
ところで この庭石の据え方には「山天」と「平天」があるといい
山天は文字通り 石の角の部分を頂点にする据え方で
平天は平らな面を上に向け その面を水平にする据え方で
これは平天石である 書院は最上級の来客用の接待・宿泊に使用され
往時は 東久邇宮盛厚王殿下 三笠宮崇仁親王殿下など皇族が
ご宿泊された記念碑が前庭入口の前に建っている

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再び野田市民会館へ [気ままに散歩]

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さて 以前訪ねた野田市民会館である フォト散歩は
チョッと寄り道をする 実はブログのなかで
毎月10日 参拝可能なキッコーマンの琴平神社を訪ねたいと
記したが 4月10日に参拝をして来た そのフォトはこの後に
登場することになるが 気になっていたことがあり
再び野田市民会館を訪ねた 以前訪ねた時は「雛人形」であったが
今回は「五月人形」 野田にはそれから五回 来たことになる
気になっていたのは 市民会館の中庭であり そちらに向かう

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キノエネ醤油の歴史 [気ままに散歩]

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野田の醤油製造は 1781年に高梨兵左衛門・柏屋茂木七郎右衛門
櫛形屋茂木七左衛門・亀屋飯田市郎兵衛・杉崎市郎兵衛・竹本五郎兵衛
大塚弥五兵衛の7家が後の野田醤油の基礎になる「野田醤油仲間」を結成
キノエネの山下平兵衛は 天保元年(1830)に醤油醸造を始める
明治20年(1887)に「野田醤油醸造組合」が結成され
大正6年(1917) 茂木一族と髙梨一族の8家合同による「野田醤油株式会社」
が設立され これが後にキッコーマン株式会社となる
『亀甲萬(キッコーマン)』は茂木佐平治家が使っていたもの
このときに 野田の醤油醸造業者のほとんどが合流したが
キノエネ醤油のみ合同に参加せず 現在まで独立した事業者として存続している

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お醤油の街の由縁 [時空]

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この通りの両側に キノエネ醤油の工場が並んでいる
木造二階建ての事務所は明治30年の建築で その東側に木造二階建ての
主屋が明治36年に増築され 事務所兼主屋と東側に続く
黒い板塀は レトロな雰囲気を醸し出し 歩いていても
落ち着ける雰囲気を持っている
野田市の街辺りは 何処を歩いていてもお醤油関連の工場や
施設に巡り逢う 工場には必ずと言って良いほど
このような大きな貯蔵タンクが見られる

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キノエネ醤油  [めぐり逢い]

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こちらは愛宕神社近くにあるキノエネ醤油である
野田には現在 キッコーマン ヒゲタ醬油の3つの
醤油醸造会社が在る ヒゲタ醤油は銚子で
野田に工場が在り キッコーマンと資本提携をしている
キノエネ醤油は 天保元年(1830)創業の歴史ある醸造元で
天保11年版の関東醤油番付に 白木平兵衞家として載っている
キノエネの社名は 陰陽道の五行十干と十二支
陰陽道の五行十干(甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸)と
十二支(子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥)を
組み合わせた60組のうち 一番最初の「甲(きのえ)子(ね)」を付けた

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勝軍地蔵堂 [めぐり逢い]

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こちらは 愛宕神社本殿の後方にある勝軍地蔵尊が祀られる勝軍地蔵堂
勝軍地蔵尊は神仏習合の世界観では 愛宕権現の本地仏とされる仏で
本地仏とは 本来の姿は仏教の仏 その仮の姿が神道の神
という意味で 明治維新の神仏分離では分離され ここにあった
延命地蔵堂に合祀されたが 明治45年に延命地蔵は横に移動させ
勝軍地蔵堂を建立した 堂はキッコーマンの茂木家が寄進したとされる
勝軍地蔵尊は 鎌倉時代 武家の間で信仰された
馬上甲冑をつけ 右手に錫杖 左手に如意宝珠を持った珍しいもので
戦勝を祈願した と伝えられる 明智光秀が本能寺に向かう際に
武運を祈願した京都の愛宕山 愛宕権現の本地仏 勝軍地蔵である

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真言宗豊山派の西光院 [な~るほど]

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こちらは 野田愛宕神社と地続きとなっている真言宗豊山派の西光院
江戸前期の寛永20年(1643)創建で 明治維新時の神仏分離までは
野田愛宕神社の別当寺を務め 愛宕権現の本地仏である勝軍地蔵を
祀る寺院で 神仏習合が今も見ることができる 別当寺とは
江戸時代以前から明治維新まで 神仏習合の過程で成立した
仏事をもって神社に奉仕する寺院のことで 別当とは「別に当たる」で
本来の意味は「別に本職にあるものが他の職をも兼務する」という意味
フォト下の本堂は天保2年(1831)に火災で失ったが
弘化2年(1845)に再建された 愛宕神社と共に広い境内に並ぶ

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本殿と彫刻 説明板⓶ [ビューティフル]

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本殿背面に描かれている3枚の彫刻である
説明板には 竜を頭にのせる仙人・弾琴の弁天と竜
そして神宮皇后三韓征伐とある
下総野田愛宕神社の本殿と彫刻の説明板には
透かし彫り彫刻群について の説明がある
1) 羽目板の彫刻 正面 桟唐戸(さんからど))x3 束側面
桟唐戸  天の岩戸の前で踊る天宇受売命・岩戸を開く手力雄命
西側面 桟唐戸 逃げる熊襲・草薙剣で熊襲を払う大和武尊
背面 竜を頭にのせる仙人・弾琴の弁天と竜・神宮皇后三韓征伐
2) 脇障子の彫刻(表)雲に滝中の鷲 束脇障子(裏)滝に竜
匹脇障子(表)牡丹に孔雀(裏)牡丹に唐獅子
3) 組物の彫刻 尾垂木 (下段) 獏(上段)竜 鼻 鳳凰
4) 腰羽目板の彫刻 東側面 展書の唐子・囲碁の唐子・弾琴夫人と唐子
西側面 相撲をとる唐子・魚取りをする唐子・獅子舞をする唐子
背面 軍鶏を籠に追いやる唐子 闘鶏を見る唐子・鶏に餌をやる唐子
5) 蹴込板の彫刻 6) 縁下組物の彫刻 持送 波に亀の籠彫(隅行は竜)
7) 向拝の彫刻 柱の懸鼻 獅子(正面向き)組物 竜
平成十六年三月三十日  千葉県指定有形文化財
下総野田愛宕神社氏子 資料 野田市教育委員会文化財

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本殿と彫刻 説明板① [めぐり逢い]

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下総野田愛宕神社の本殿と彫刻 <説明板 ①>
現在の本殿は 文政七年(1824)11年の歳月をかけて再現されたもので
入母屋造りの三間社 正面千鳥破風付 向背一間 銅瓦葺きで壁や柱の
至るところに精巧な彫刻か透かし彫リて描かれています 大工の棟梁は
武州川俣村の三邑吉左衛門正利と野田町の荒川喜兵衛正幸
彫物師は上州勢多群花輪の石原常八主信といわれています
江戸時代末期の社寺建築の特徴を 遺憾なく発揮された重要な建造物で
現在の本殿は文政七年(1824)に 11年の歳月をかけて
再現されたものだが このように壁や柱の至るところに
描かれた精巧な彫刻か透かし彫リが 現在でも観られる
腰羽目板には唐子の彫刻(「かごめかごめ」の由来の彫刻?)
や軒下の彫刻など 素晴らしい彫刻が観られる

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愛宕神社 本殿の彫刻 [ブラボー]

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愛宕神社の本殿の特徴は 施されているこの装飾彫刻である
建物の規模としては小さいのだが 余すところのない彫刻は
「匠の里」と呼ばれる花輪村(現在の群馬県みどり市)出身の
二代目石原常八の作で 当時かなりの腕利きで 関東一円に
その作品を残し 意匠や技術に優れた江戸時代後期の典型的作品である
木の端に付けられた彫刻の木鼻には 獅子鼻貘鼻 龍鼻
雲形花や葉をかたどった植物鼻などがあり
屋根を正面の階段上に張り出した向拝部分や
羽目板(壁)から縁下の組物まで  柱や貫までも文様が
彫り込まれ 圧倒されるその姿である

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氏神 雷神の迦具土命 [な~るほど]

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愛宕神社の由緒は 野田開墾の後 火の災難を防禦するために
山城國愛宕郡愛宕(現在の京都市右京区)の里から
この地に 延長元年(923)迦具土命(カグツチ)の御分霊を遷奉りて
氏神とした 迦具土命は雷神を祀り 防火を司る神様で
依って野田郷開梱後 郷内に勢力を伸ばしはじめた
土豪(農兵)等の間に 争いなどがあり 山火事ばかりでなく
兵火の心配も多く故に火伏の神を祀ったと 伝えられているという
迦具土の「カグ」とは 火の輝くこと「ツチ」とはその霊力のことで
この神名は神の 輝くお力について言ったもの
また火霊神(ほむすびのかみ)とも言われ 火が万物を
生み育てる力の根源である霊力を称えた名でもある
古代の農耕守護 五穀豊穣の神様であると共に 愛児(あたご]様
とも言われ 安産 子供の成長 成育の神様でもあるという

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愛宕神社本殿 [めぐり逢い]

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愛宕神社本殿である 愛宕神社は 延長元年(923)に
火伏せの神である山城国の愛宕神社を勧請したと伝えられ
現在の社殿は文化10年(1813)に再起工し 文政7年(1824)に
再建されたとの記録があり 本殿内の壁画は瑤斎伊白栄原により描かれ
嘉永6年(1853)の落款があるという
社殿様式は 入母屋造の三間社で木造銅瓦葺の屋根で
軒は二軒繁垂木 向拝を設け 切石積の基壇上に建っている
凝った造りだが  建物自体の規模は小さく 三間四方 約5.4㎡である

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愛宕神社 交差点鳥居 [な~るほど]

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以前立ち寄った須賀神社の下町交差点から 本町通り(流山街道)を
北へ1㎞もない所に 交差点に向かって建つ 愛宕神社の鳥居である
鳥居を入ると広い境内だが 昔は鳥居はこの場所になく
大きな旅館があったが 愛宕神社前の道路工事で多く の家が移転
この場所の尾張屋旅館も移転 神社境内の拡張が拡張されたといい
この奥の左手に在るのが本殿 参道が延びその正面 この奥の右手に
鳥居があり その鳥居はこの鳥居の反対側 奥の東に在るという

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気になる和菓子の店 [ちょっと一息]

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郷土のお菓子 野田っ子 醤油羊羹「御用蔵」 御菓子司 喜久屋
気になる案内板である 特に 醤油羊羹「御用蔵」
あのキッコーマンの「御用蔵」と同じネーミング 気になる
醤油羊羹「御用蔵」とは 構想から約6年 全国の数ある醤油で
試行錯誤の末 辿り着いた 地元野田の最高級品「御用蔵醤油」
べっ甲色の美しいこの羊羹は 一口含むと醤油の豊かな風味が
ふんわりと広がるという 平成元年発売以来
変わらず守り続ける味 厳選した原料を使用し 手煉りで
じっくりと煉り上げた 喜久屋自慢の一品とある
 さすがにお醤油の街の発想 そして「野田っ子」とは
野田が発祥といわれるわらべ歌「かごめかごめ」の童子像を
モチーフにした喜久屋の代表銘菓 紫・緑の包装は女の子
茶は男の子をイメージし 仕上げたもの
包装紙の色により 三種類の味をお楽しめるという
これも次回の 野田土産としてお愉しみである

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野田のばっぱか獅子舞 [気ままに散歩]

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この清水八幡神社では 祭礼の日の夜に「ぱっぱか獅子舞」が
雨乞いや五穀豊穣を願い 奉納されるという 古い記録によると
元禄6年(1693) 武蔵野の国下間久里村(現在の埼玉県越谷市)の住人
新井平兵衛が先達となって八幡宮に奉納し 地元の者に伝授されたのが
始まりとされている 「ばっぱか」という名は 舞人がお腹に抱えて
叩き踊る太鼓の音が 「バッパカ バッパカ」と聞こえそうで
獅子舞・棒術・居合術の三つから構成され それぞれ獅子組・棒組・居合
組によって伝承されていて 3組あわせて「志連」と呼ばれる
楽器のササラを使うため 別名「ササラ獅子」とよぶこともある

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清水八幡神社の大銀杏 [めぐり逢い]

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清水八幡神社の鳥居の先にある本殿 その左側に立つのが
ひと際高い大銀杏である 
推定樹齢は800年 樹高・30m 幹周・5.5m
立派な公孫樹である でも何故 神社やお寺に公孫樹の
ご神木が多いのは何故だと思って調べてみたら
 
「公孫樹」の木は水分を沢山含んでいて 難燃性の樹木であり
燃えにくく 防火の役目を果していることから火災が発生しない
願いが掛けれれている とのことである
また木が高く 遠くからでも建物が見つけられたことから
建物のシンボルとして「公孫樹」の木が植えられた理由
とも言われているという その思いが樹齢となって成長している

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清水八幡神社 [めぐり逢い]

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清水公園から下って来ると出逢ったのが清水八幡神社
創立年代は不詳だが 残されている青石塔婆等から 南北朝末期から
室町時代に村民の定住がなされ 信仰の対象として「八幡宮」を
鎮座したという説があり 「清水」の由来として
八幡大神を祀る神殿が 鎮座する場所より少し隔たりある窪地に
一夜にして清水が噴出して 村人たちは恐れをなし ここを
「御手洗」と唱えて 清水八幡大神と尊号して 地名にもなったという

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牧場管理 花野井家 [な~るほど]

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花野井家は 流山市前ケ崎に所在する中世の前ケ崎城跡に接した
高台に屋敷を構え 元来はこの城に属した地侍層の出身といわれ
江戸幕府直轄で軍用馬の放牧・育成をおこなっていた小金牧で
村の名主として牧士となり 農民を指揮し 牧場の管理していた
移築される前は 間口10間半 奥行5間半の大きさだったが
移築を期に 建造当初の形式である間口8間 奥行5間の規模に復原された
間取は 居間である板敷きの「ひろま」 納戸である「へや」のほか
客座敷として4畳・10畳・6畳の3室が並ぶ5室構成で 左手には土間があり
座敷の部屋部分と土間部分が同一の棟の内に取り込まれている直屋型の住宅で
特に居間は特徴的で 21畳敷ほどの板の間の表側は格子窓のみとし
閉鎖的である これは外部との接触を避けた工夫と考えられるが
今回は見られず 次回の訪問が愉しみである

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旧花野井家住宅 [めぐり逢い]

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清水公園の手前に在る 旧花野井家住宅の入口である/div>
花野井家は江戸幕府の軍馬などを育成する牧・小金牧で牧士として
管理を担っていた家で 昭和46年(1971)に野田市が寄贈を受けて
流山市前ヶ崎から当地に移築したもので
建築年代は17世紀後半と推定されている
ただ この日は水曜日で休館日(月~水曜日) 見学できず
残念な結果に終わった ただ以前行った小金宿訪問時に知った
幕府の軍馬育成のための牧場 小金牧が ここで繋がるとは
驚きでもあった 気ままな散歩の 運・不運の場所であった

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清水公園 満開の桜 [ブラボー]

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桜満開の清水公園を ひとり占めする時間帯に入った
混雑した通勤電車に乗った 出掛けて来た甲斐があった
なんと贅沢な時間と 情景を持てるのかと改めて思うが
何時もこんな状態でないことも確かであり
その点は お間違えの無いように願うものである
満開の桜と快晴の空の空間 誰も居ない園 言葉はいらない

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