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本丸御殿 館内図 [な~るほど]

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フォトは36畳の広さを誇る 御殿内で2番目に大きな座敷で
来客が城主のお出ましまでの間待機した部屋と考えられ
城主との対面は 南側にあった「大書院」でおこなわれたようである
板戸には 豪華に松と朝日が描かれている
家老詰所の手前に在るのは明治棟と言われる 明治初期に
建てられたものと思われ 本丸御殿が入間県庁や入間郡公会所として
利用された際に その附属施設として使用された可能性がある
平成20年度の修理に伴う解体により 「大書院」など同時期に
解体された本丸御殿の部材の一部が 天井裏に転用されていることが
確認され 古材が使用されている部分は そのまま保存し
柱などの一部を交換して 補強したという

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本丸御殿 南に「大書院」 [な~るほど]

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本丸御殿の南には 城主との対面の間を擁する「大書院」があり
その西側には 城主の住まいなどの私的空間である
「中奥」「奥向」が連なっていたという
書院は明治初期に解体されたが 本丸御殿南端の柱群には
書院の部材が入れられていた「ホゾ穴」などの痕跡が残っている
本丸御殿から西に伸びる廊下には 御殿内最大の居室である
「御時計の間」や城主の食事を作る厨房があり
その最も西側に家老詰所があったという

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復元移築の家老詰所 [な~るほど]

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さて この家老詰所だが 明治5年(1872)に福岡村(現ふじみ野市)の星野家に
払い下げられていたものを 昭和63年度に現在地に復元移築したもの
「本城住居図」(光西寺蔵)により 当初は本丸の西の外れに土塀で囲まれた
独立建物だったが 復元時に約40m東側にずらして
現在の位置に配し 本丸御殿につなげて建設されたものである
外観は 寄棟造桟瓦葺屋根の平屋建で 南側に下屋が延び
縁側が回る住宅建築に見えるが 室内は1間毎に5寸角の柱が立ち
武家住宅の剛健さがうかがわれる 間取りは西側から
床の間床脇付き10畳の主座敷 8畳の次の間2室が続き 南側に
縁と畳敷の入側が庭に面して配され 北側にも座敷が張り出し
縁を介して便所が2カ所設けられている 藩政を実質的に支えた
家老の居室が残っているのは 全国的に大変珍しいという

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三浦半島の警備担当 [な~るほど]

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嘉永6(1853)年のペリー来航の際には 川越藩は三浦半島一帯の
警備を担当 ペリーの上陸した久里浜にも川越藩兵が展開した
時の藩主 松平大和守家9代・典則(つねのり)は
この時に 江戸へ向かうペリーの一行に同行したという
フォトは「家老詰所」で合議する 川越藩家老たちで
彼らの前に置かれた図面は 幕府が外敵の侵入に備えて築いた
防衛施設・品川台場・第一台場のもので 「お台場」の由来となった
品川台場は巡ったことはあるが 当時 川越藩を知る由は無かった

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第一台場担当 川越藩 [な~るほど]

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西洋列強による脅威が高まりつつあった幕末の頃 家老の仕事は
交易を求める外国籍の船舶が頻繁に来航・接近するのに対して
川越藩は「御固四家」 (川越藩・彦根藩・会津藩・忍(おし)藩)の一つとして
幕府より江戸湾警備を命じられ このように江戸湾の
「第一台場」の構造と兵の配置が描かれ 風雲急を告げる時代の
緊迫感が 人形により表現され 表情と議論の模様から伝わって来る
当時 川越藩主はほとんど江戸に詰めていたことから
川越城では 家老が実際の藩の運営を取り仕切っていたと思われている
お台場は 第一台場は川越藩 第二台場は会津藩
第三台場は忍(おし)藩 第五台場は庄内藩
第六台場は松代藩 御殿山下砲台場は鳥取藩が担当した

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家老詰所と見取り図 [な~るほど]

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「家老詰所」の部屋の様子と見取り図である
内部は最奥の「家老詰所」を始めとして 7つの部屋に区切られていて
廊下が2ヶ所 入側(いりがわ 書院造りの建物で 濡れ縁と座敷の間に
設けられた 1間(=1.818m)幅の通路)が1ヶ所設けられている
また廊下を挟んで東西に 雪隠(せっちん=トイレ)も用意されていた
「家老詰所」の他に町や村の行政を司っていた「年寄」が詰める「年寄詰所」
「記録方」が職務に当たる「記録方詰所」などが同居し さながら
現代で言うところの役所のような役割に相当している

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繊細な部屋の装飾 [ビューティフル]

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廊下がぐるりと巡り なかなか広いスペースである
観覧は自由に行動が出来 オープンな部屋のなかを覗くと
落ち着いた雰囲気 部屋を仕切る板戸に描かれている木々の絵や
採光 通風 装飾の目的のために天井と鴨居との間に設けられた
欄間のデザインも 他では観られない繊細な造りである
ふと 自分の心が大きな夢のなかへと入ったかのように時が流れる
今はもう 誰も存在しない人の築いた歴史の遺構を こうして
味わうのが不思議のなかにも 理解できるような気がするのである

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川越城 殿中でござる [ブラボー]

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川越城本丸御殿に入る 一歩一歩歴史のなかに
落ちて行くのだが まてよ 何処かで出逢った風景と感覚
そうである この少し前に喜多院で観た
江戸城から移築された客殿・三代将軍家光誕生の間と
書院・春日の局の化粧の間 スケールこそ違うのだか
その雰囲気と 光景が甦って来たのである
時が褪せてきたように そしてキラキラと伝わって来る
元々本丸御殿は 16棟 総建坪1,025坪も規模をもっていたが
残念ながら 明治維新後の歴史の波の中で解体され
現存しているのは 玄関・大広間と 移築復元された
家老詰所のみとなっているが ほぼ自由に見学ができて
フォトも自由に撮れることも 私をワクワクさせたのである

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「江戸図屏風」の川越城 [めぐり逢い]

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川越城の「本丸御殿」の記録は 国立歴史民俗博物館が所蔵している
「江戸図屏風」に描かれている様子がもっとも古いもの
これは以前 私が歴博で撮った「江戸図屏風」の部分
様子がもっとも古いもので 屏風には 高い城壁に囲まれた川越城の
一番奥に本丸御殿の姿が描かれ 腕に鷹をとまらせた鷹匠も
描かれていることから 本丸御殿は3代将軍家光が鷹狩りの際に
休憩所として利用した「御成御殿」だったのではないかと
家光以降の将軍は 川越城を利用しなくなり 本丸御殿は取り壊された
更地の状態が続いたが その2年後に藩主の松平斉典(なりつね)が
空き地だった本丸御殿の場所に新しく御殿を建設し
それが今残っている本丸御殿 当時の広さは1025坪
(約3400㎡)で 16棟の建物を有していたという

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川越城本丸御殿 玄関 [めぐり逢い]

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その後 豊臣秀吉の小田原征伐の際に 前田利家の攻撃を受けて落城
徳川家康が関東に配置換えになった時 川越も家康の領地となる
以後 徳川家の重臣が城主を務め 天草の乱を鎮圧した松平信綱や
5代将軍綱吉の側近だった柳沢吉保などもこの地を治め
江戸の北の守りとして重要視された これは本丸御殿の玄関
そのほか 大広間・家老詰所が残り 川越藩17万石の風格を偲ばせている
現存するこの建物は 嘉永元年(1848年)に建てられたものという

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川越城 本丸御殿 [時空]

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川越の歴史を語る上で欠かせないのが「川越城」
室町時代にこの地を治めていた一族の扇谷上杉氏が
ライバル勢力だった足利家に対抗するために築城した川越城
上杉持朝の命により 家臣の太田道真・道灌親子が
長禄元年(1457年)に築いたといわれるが
1537年に北条氏綱によって占拠
1546年 扇谷上杉家はかつての敵の足利家などと連合を組んで
川越城を包囲するが 北条氏康の奇襲によって総崩れとなり
北条家による川越城の支配が確立された

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川越城七不思議 初雁の杉 [な~るほど]

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三芳野神社には 川越城七不思議のひとつ
「初雁の杉」がある 川越城内にある三芳野神社の
本殿の裏には 大きな杉の老木があり
いつの頃からか毎年雁の渡りの時期になると時を違えずに
飛んできた雁は 杉の真上まで来ると三声鳴きながら
杉の回りを三度回って 南を指して飛び去ったという
そのため川越城は 別名初雁城(はつかりじょう)ともいわれ
この初雁の杉 現在は三代目の杉が植えられているという

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末社 大黒社と蛭子社 [な~るほど]

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拝殿の前方 参道に向かい合って鎮座する末社
拝殿に向かって右のフォト下が蛭子社(えびすしゃ)
拝殿に向かって左のフォト上が が大黒社である
両社とも一間社流造 見世棚造の簡素な建築である
建築年代は 蛭子社に掲げられている額の背後に
享保19年(1734)の年紀があるという
三芳野神社は城の守護社として幕府に庇護され
建築・修理などの工事を受け持った作事方(さじかた)の
大工頭や大棟梁が何代にもわたって最高の技術を凝らし
修造に携わった建築であり 代表的な近世社寺建築のひとつである

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権現造りの社殿 [ブラボー]

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三芳野神社は明暦2年(1656)に 四代将軍家綱の命を受け
川越城主 松平信綱により大改造が行われ 施工には
著名な幕府の棟梁 木原義久があたったという
その大改造の時に 江戸城二の丸の東照宮本殿を移築し
本殿として 寛永に建てられた拝殿との間に
幣殿を新しく設け 権現造りの形態とした
格調の高さは桃山時代の気風が反映されているといわれ
県内における初期の権現造りとして 最も優れているという
平成元年~4年(1989~1992)に 基礎的修理と防災工事が行われ
平成27~令和頑年(2015~2019)には 全体の塗装や
飾り金具工事など 漆・彩色の塗り直しが行われが行われ
このような姿に甦った

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三芳野神社 本殿正面 [時空]

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祭神は素盞烏尊(すさのおのみこと)
奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)
菅原道真・誉田別尊(ほんだわけのみこと)を配祀する
三芳野神社には 「三芳野天神縁起(県指定文化財・絵画)」
「拵え付太刀(県指定文化財・工芸品)」「銅製扇形額(重要美術品・工芸品)」
をはじめ 奉納された社宝が数多く伝わっている
特に「三芳野天神縁起」は 創建から遷宮式までを伝説と史実を
織り交ぜて綴られたもので 極彩色の大和絵と流麗な仮名混じりの
詞書からなるたいへん美しく豪華な縁起絵巻で
美術的にも歴史的にも 極めて貴重なものであるという

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「川越城の七不思議」 [な~るほど]

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三芳野神社は さいたま市の氷川神社を勧請したとも
京都市の北野神社を勧請したともいわれているが定かではない
また「わらべ唄発祥の地」の碑の他にもうひとつ
「川越城の七不思議」と書かれた案内板と碑が設置されている
川越城七不思議はあまり知られていないが
その名の通り七つの不思議話がある 川越城七不思議
<霧吹の井戸><初雁の杉><片葉の葦(あし)><天神洗足の井水>
<人身御供><遊女川の小石供養><城中蹄(ひずめ)の音>
<片葉の葦(あし)>については 川越城の姫と葦の話が
浮島稲荷神社のフォトのなかで登場している

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童謡「とおりゃんせ」 [な~るほど]

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三芳野神社は 約1200年前の平安時代初めに創建された
ことで有名な神社で また参道は童謡「とおりゃんせ」の
発祥の地とだと言われ 先の神社の参道が舞台といわれ
これはその碑である 三芳野神社は 川越城の鎮守として城内に建てられ
一般の人の参詣はなかなか難しく その様子が歌われていると
伝えられている 歴代の川越城主のみならず庶民からの信仰が厚く
「お城の天神さま」として親しまれたという
 
通りゃんせ 通りゃんせ ここはどこの 細通じゃ
天神さまの 細道じゃ ちっと通して 下しゃんせ
御用のないもの 通しゃせぬ この子の七つの お祝いに
お札を納めに まいります 行きはよいよい 帰りはこわい
こわいながらも 通りゃんせ 通りゃんせ

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お城の天神さま [な~るほど]

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三芳野神社 石鳥居と社殿である
現存する社殿は 寛永元年(1624)川越城主酒井忠勝が
三代将軍 徳川家光の命を受けて造営したもので
幕府の棟梁 鈴木近江守長次によって再興され
翌寛永2年に 天海大僧正を導師として遷宮式が行われ
それ以後 喜多院 仙波東照宮とともに江戸幕府の直営社となったという
三芳野神社は 川越城築城後は城内の守護として 旧川越城内の
天神曲輪にあり 四方を土塁と堀に囲まれていて
このことから「お城の天神さま」ともいわれている

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川越城内の三芳野神社 [めぐり逢い]

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川越城と三芳野神社の位置関係である
図のように 本丸御殿の真ん前に鎮座し 天神門が在る
旧川越城内の天神曲輪にあり 四方を土塁と堀に囲まれて
いたのがよく分かる 現在は堀は埋められて
後に登場するが 川越城富士見櫓跡と中ノ門堀が その姿を残すのみ
日本で本丸御殿の大広間が現存しているのは川越城と高知城の2例
「本丸御殿」がある川越城は 非常に貴重な文化遺産であるという

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三芳野神社 参道 [時空]

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浮島稲荷神社から 川越城本丸御殿方面へ向かうと
現れたのがこの参道である 三芳野神社(みよしのじんじゃ)
この前に巡った浮島稲荷神社の参道 そしてこの参道
長い参道のイメージは どことなく似ていて
やはり川越城築城と関連が在るのかと思いきや
この神社 川越城築城以前から当地にあったが
太田道真・太田道灌父子による川越城築城により
城内の天神曲輪に位置することになったという
つまりこの場所は川越城の内部で在ったのである
明治元年(1868)  川越城は松井家が明治政府に恭順の意を示すため
堀を埋め 明治2年(1869)老朽化したを部分的取り壊し
今はその一部が 現存している

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川越の気ままな散歩 [時空]

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さて 川越の蔵造りの街並みの東側 喜多院を中心に巡って来たが
これがら喜多院の北側 三芳野神社 川越城本丸御殿
そして川越氷川神社へと向かう 川越のメイン通り
「川越の蔵造りの街並み」 時の鐘はまだ少し先になり
そこが知りたいのにと思っている人も
多いのも感じつつ 川越の気ままな散歩は 続いて行く

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浮島稲荷神社の歴史 [な~るほど]

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地元の人たちから「うきしま様」と広くしたしまれいるが
この神社がいつ頃建てられたか定かではない
浮島稲荷神社は 記録などから約320年前に既にあったとされ
文政九年(1826) 石鳥居を建設し 天保〇〇年(1830~1844 )社殿を再営する
とあり かつては「末広稲荷」とも呼ばれ 安産の神として麻を奉納する
風習が伝えられる 言い伝えによれば
大昔 星野山(今の喜多院)にあったのを慈覚大師が喜多院を開いたとき
ここに移したとか また一説には 太田道灌の父大田道真が
川越城を築城した際に城の守護神としてこの地に祀ったもの
とも伝えられる  現在ある社殿は1915年に改築したものであるという

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浮島稲荷神社 社殿 [な~るほど]

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浮島稲荷神社は 明治の初めに社名を「浮島社」から
「浮島稲荷神社」に改め 大正四年には本殿及び拝殿を再建した
浮島稲荷神社は 太田道灌が河越城を築城の際に城内守護のために
奉斎したといわれ 当地一帯は多能武沢と言われ
三芳野の中でも眺望に優れていたことから
川越市文化財史跡名勝に指定されている
この三芳野は 在原業平の「伊勢物語」に出てくる
「入間の郡三芳野の里」という地名が川越の旧地名であった
ことによる この後に三芳野神社も登場する

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「片葉の葦」の碑 [な~るほど]

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これは浮島稲荷神社境内に在る「片葉の芦叢生の所」
これは川越城七不思議のひとつの「片葉の葦」
(かたばのあし)にも登場する 別名「七ツ釜」
むかし 川越城に住んでいたお姫様が 戦に敗れ
夜乳母に連れられ 城を落ちのびました そして
城から少し離れた浮島神社の近く 七ッ釜といわれる
葦のたくさん生えている沼地あたりに逃げて来ました
その時 お姫様は誤って七ッ釜のひとつに落ちてしまうが
年をとった乳母の力ではお姫様をどうすることもできず
お姫様は ただもがくばかりだったが 近くの葦の葉に
しがみつき はい上がろうとしましたが 葦の葉はもろくもちぎれ
お姫様は片葉を掴んだまま 哀れな最期を遂げたという
その後 七ッ釜あたりに生い茂る葦は
すべて片葉の葦になったということである

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浮島稲荷神社 [めぐり逢い]

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成田山川越別院の参拝を終え 川越城へ向かい 歩き出すと
巡り会ったのが この石鳥居 浮島稲荷神社とある
神社名の由来は この辺りは田面沢と呼ぶ沼地で
遠くから神社を眺めると 丁度 鳥のように浮かんで見えたというが
石鳥居からの参道は 真っすぐに社殿へと向かい
今ではすっかり様子は変わってしまい
沼地に建てられた神社とは思えない
そういえば 昔は喜多院の近く辺りも見渡すかぎりの
大海原で どこへ行くにも舟を使っていたそうだとあった

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川越=さつまいも [グルメ]

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さて 喜多院から成田山川越別院を巡った
そろそろ小腹が空いて来たころである
昼食には早いが お土産の話をする
実は 川越散歩は今まで五度足を運び歩いて来たが
その都度 お土産で持って帰ったのがこの「芋ぽて」である
川越名物の食材には うなぎ・蕎麦・河越抹茶があるが
川越と言えば「さつまいも」というイメージがある
江戸時代は甘いものが少なかったため 川越で生産される
さつまいもは高級品とされており 川越から舟を使って江戸に
出荷していたことから 川越いも(さつまいも)となる
今日も お土産は「芋ぽて」を持って帰る

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亀池に「しあわせ不動」 [な~るほど]

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こちらは本堂脇の亀の池である 200匹以上の亀がいるという
造られた時期は定かではないというが 昔から放生池
(捕えた生物を放ち逃すことにより 慈悲心をおこす)として
この辺りの人々に親しまれていると 亀は寺の裏庭で卵を産み
それらが孵化して 又池に帰るという そしてこの池の何処かに
「しあわせ不動」がかくれているのだという 池のなかに隠れる
「しあわせ不動」 残念ながら私は見つけられなかった

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川越別院 出世稲荷 [な~るほど]

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成田山川越別院 出世稲荷である 大本山成田山新勝寺の
大本山成田山新勝寺の吒枳尼天を歓請して お祀りしている
出世稲荷は開運出世はもちろん 商売繁昌 合格成就
就職成就など 荼枳尼天(だきにてん)は人を選ばないといわれ
誰にでも願望を成就させると信じられている
吒枳尼天は 曼荼羅にも描かれているインド伝来の神さまだが
神仏習合という考えから 日本古来の「稲荷神」と同じで
あるとして 古くから商売繁昌 開運成就
また火伏せのご利益があると信仰されるという

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山門脇の大師堂 [めぐり逢い]

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山門を入ると 右手に在るのがこの堂宇 大師堂である
成田山川越別院本行院は 真言宗智山派で 成田山新勝寺の別院で
大師堂には真言宗の開祖弘法大師 中興の祖興教大師
そして理源大師が祀られている 
別院とは 本山に準じるものとして別の地域に設けられた寺院
本寺所属の支院 七堂伽藍のほかに僧の住居として建てられた堂
成田山の別院は 東京別院 (成田山深川不動堂)
川越別院 (成田山本行院) 札幌別院 (成田山新栄寺)
横浜別院 (成田山延命院) 函館別院 (成田山函館寺)
大阪別院 (成田山明王院) 名古屋別院 (成田山大聖寺)
福井別院 (成田山九頭龍寺)をはじめ 分院・末寺・末教会・成田山教会など
全国に71カ寺があり 全国各地の不動尊信仰を支えているという

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石川照温について [な~るほど]

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成田山 川越別院を再興した下総の国の僧 石川照温については
次のような話が伝えられている 農家に生まれた石川照温は
三十歳の頃に目が見えなくなり 光明を失くした照温は
ある日のこと自ら命を絶とうとしたが その時不思議なことに
光を失った眼前に不動明王が見えたので にわかに
仏道に目覚め それまでの生活を改めるとともに
成田山新勝寺のお不動様を熱心に信仰するようになる
その甲斐があり 失明した目もいつか見えるようになる
いよいよ仏道に励み 当地に寺を建立し
多勢の信者から慕われるようになったとあり
照温の碑が 近くの中院墓地に建てられているという

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