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面影橋駅と面影橋 [スペース]

面影橋駅.jpg
神田川にかかる橋 面影橋 この地に住んでいたという
於戸姫が美貌ゆえ 次々と災難にあい それを苦に
髪を切り その姿を川面に映して身を投げたという
悲話により 里人が思いやり 名付けたといわれる
太田道灌所縁の山吹の里伝説や 面影橋北側の
一帯は砂利がとれ 「砂利場村」があり またここは蛍の名所であり
他ではみられない大きな蛍が飛び交 っていたと言うが
今やその面影も無い 面影橋辺りである

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半田稲荷神社東参道 [スペース]

IMG_1548.JPG
こちらが 直接水戸街道に通ずる東参道である
一の鳥居 そして二の鳥居の在る山門は
南方に伸び 現在は左へ小さな「Lの字」で結ばれる
柴又の帝釈天の開創は江戸時代初期の寛永6年(1629年)
「柴又帝釈天」が信仰を集めるようになったのは
18世紀末のころであり それまではこの手前に鎮座する
創建 平安時代末期 元暦2年(1185年)の葛西神社があった
この辺りは長く下総国に属し 江戸時代になると江戸川を境に
武蔵国に属した おかげ様で 端っこの東京都である

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東向く神楽殿 [スペース]

IMG_3968.JPG
神楽殿である 神道の神事において神に歌舞を奏 奉納するための場所で
神楽を舞うための施設で その語源は
「神座」(かむくら・かみくら)が転じたとされ
古事記・日本書紀の岩戸隠れの段で アメノウズメが神懸りして
舞った舞いが神楽の起源とされている
神楽は 宮中の御神楽(みかぐら)と 民間の里神楽(さとかぐら)に分けられるという

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所沢上空の自衛隊機 [スペース]

狭山湖上空.jpg
 上空を飛び交うのは自衛隊
入間基地の自衛隊機である
フォトは合成写真であるが
結構な頻度で飛び交っている
さて 狭山湖を訪れた私が
次に向かったのは 初めて来た
時に 駐車場捜しで 偶然に
出会った場所で在る 私が駐車
場所からも近いお寺である
驚いたのは 失礼であるが
こんな山の奥に このような
お寺が在るのかと思える
山門からの参道であった 狭山湖には初日に一時間 そして二度目も一時間くらい居たで
あろうか 所沢からこんなに近いということも初めて知ったが 先日 航空公園駅へ葬儀
で来た資料があり 始めて来たのでは無いと知った この街の何処かに友人も住んでいる
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高速都心環状線 [スペース]

IMG_1563.JPG
千鳥ヶ淵緑道の手前は高速都心環状線で 西神田や竹橋方面から来た車は 千鳥ヶ淵のお濠
の手前の北の丸トンネルを出て お濠の上を過ぎて 千鳥ヶ淵交差点の手前で また地下に
潜って行く トンネル内で直ぐに中央高速道路 東名高速道路・都心環状線方面に分かれる
トンネル間のこの場所だけ 騒音が甦り 北の丸公園の閑静な江戸の佇まいを乱している
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地蔵堂新築工事 [スペース]

IMG_0414.JPGIMG_0415.JPG
 豪徳寺 地蔵堂新築工事
山門を入って右側 鐘楼の手前
に建てられている 豪徳寺は今
開祖堂 そして書院も工事中で
ブログは 過去のフォトを折り
混ぜながら構成している
墓地がそうであったように
昨年の台風による被害なのかは
解らないが 修理中である
いつ完成予定なのか解らないが
またひとつ 愉しみが増えそう
だが その頃は別の場所を集中
して散歩をしているかもである
東急世田谷線の沿線は 大分
歩いて もう残りのエリアは
少ないが 世田谷エリアは
まだ散策の余地は充分残って
いる 武蔵野は江戸よりも歴史
が古く 最近はなかなか面白い
エリアであると思っている
多摩川の存在が この地域の
歴史に大きく絡んでいると
思われる 835年に朝廷が
発した官符では 丸子の渡し近傍をもって「武蔵国石瀬河」と呼称されている なるほど 
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黄葉の国士舘大学 [スペース]

国士舘大学 公孫樹.jpg
 世田谷区役所の前の鮮やかに
黄葉していた公孫樹の木がこれで
実はここ 国士舘大学である
1917年(大正6年) 港区麻布笄町に
私塾国士舘創立 1919年(大正8年)
世田谷キャンパスの現在地へ移転
『大正維新の松陰塾たらん』と
吉田松陰の精神を範とし 日々の
「実践」のなかから心身の鍛練と
人格の陶冶をはかり 国家社会に
貢献する智力と胆力を備えた人材
「国士」を養成する国士舘大学が
この地に在るのは当然と思われる
「読書・体験・反省」の実践
「誠意・勤労・見識・気魄」の涵養
国士舘大学の教育理念
吉田松蔭の言葉「百年一瞬耳」
「百年の時は一瞬にすぎない 君たちはどうかいたずらに時を過ごすことのないように」
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墓域案内図 [スペース]

松陰先生墓域案内図.jpg
 墓域の案内図である
神社にお墓があるのは 神社と
いうのは日本古来から伝わる
神道であり お寺は仏教を
それぞれ信仰としていて
お墓を建てるという行為自体が
宗教による教えから始まった
わけではなく 日本の風俗習慣
である「祖先のお祭りを行う」
という行為から派生したものに
変わりはない 神道と仏教の
お墓の形状は似ていて あまり大きな違いはない 松陰神社の脇には墓地があり その
一番奥の社務所の裏側に 吉田松陰をはじめ烈士の墓域があるが これは墓域案内図
世田谷区若林 三軒茶屋からさほど遠くない閑静な場所に在る吉田松陰墓地である 
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世田谷のチシャノキ [スペース]

IMG_4407.JPG
 境内のほぼ中央に立っているのは
チシャノキである さほど広くない
境内にあって 境内の中央に立つ
この木の存在は大きく 樹齢100年
以上の巨木であるという あまり
聞いたことの無い名前だが その
名の由来が面白い この木の若葉は
食用にすることができて その味は
「チシャ(レタス)」に似ていること
からついたという またこの木の
樹皮や葉がカキノキに似ていること
から 別名カキノキダマシともいう
広葉樹・落葉高木のこの木は 暖地に
生え 高さ10~20mになるという
6~7月頃 枝先に円錐花序を作り
白い小さな花を咲かせ 9~10月頃
直径2㎝ほどの果実が 枝先に
たわわに実り 果実は玉ねぎを模したような形をしているという あまり見かける
ことの少ない 珍しい木なのか 良く見るとかなり特徴のある形をした樹木である 
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渋谷駅前 多摩川通り [スペース]

DSC_2936.JPG
 渋谷駅前の多摩川通りである
スクランブルスクエアから人の
流れに従い 歩いてきたら
いつの間にか西口の出口に
そういえば 改札の前を通った
記憶もあるのだが 相変わらず
自分が何処にいるのか良く分ら
ないのは変わら無い 目の前に
広がるこの光景 国道246号の
上を 首都高速3号渋谷線が
駅前に延びているが 渋谷の街
は今 どちらを向いても駅周辺開発であり 将来は桜丘口地区と道玄坂一丁目駅前地区
(東急プラザ渋谷跡)を結ぶ西口デッキと地下歩道の整備を進め 施設と駅とをつなぐ
アーバンコア(縦移動を誘導するもの)やデッキ(横移動を誘導するもの)が新設され
より多層的な歩行ネットワークが確保されるというが 2027年度頃までの予定である
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玄関脇の第一応接室 [スペース]

IMG_9711.JPG
 玄関を入り あのモザイクの床の
右に通ずる 第一応接室である
「香水塔」の左側にあたる
玄関を入って左の間口から直接入る
ことができる部屋で 宮家を
訪ねた来賓の御用係や供待が
主人を待つ部屋として使用され
室内の柱・扉・窓枠に使用されている
木材はカエデ材で統一されている
床は市松張りにされたケヤキ材
の周りに黒檀やカリンが配された
寄木張りになっているが 今回は
展示会開催中なので 床はシートが
敷かれ 保護されていて 残念ながら
観ることは出来ない 小さな部分だが
ひとつひとつ 丁寧に仕上げている
壁紙は竣工当時のものではないが
当時と同じ スイスサルブラ社製の
テッコーシリーズで復原されている
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金町松戸 関所跡 [スペース]

2019金町関所跡2.jpg 金町・松戸関所跡である
ここは 江戸時代に利根川筋江戸川
と水戸街道の渡船場 金町と松戸の
間に設置された関所である
元和2年(1616年) 家康の死後に
関東河川の定船場16か所に定め掟書
がだされ 利根川筋の渡船場を
拠点に設置された関所の一つである
旧水戸街道宿場町 松戸宿へ渡るのが
金町・松戸の渡しで 江戸幕府は
江戸防衛のために江戸川に架橋をせず
対岸に渡るには 渡し舟を利用していた
1869年(明治2年)に関所が廃止され
関所の建物は全て取り壊されたたが
この関所の跡は 厳密には関所が
在ったところとは異なるという
ちなみに 先日の残暑見舞いの花火は
この少し先の堤の上で撮ったものである
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カシワバアジサイ [スペース]

IMG_7513.JPG
葉形がカシワに似ていることが
この和名の由来である 花は
円錐状あるいはピラミッド型に
付く独自の形状であり 5月〜
7月に真っ白い花を付け 花は
八重咲きと一重咲きがある
一般の紫陽花とは異なり全体の
印象としては木のボリュームに
似て 花が少ないのが特徴
葉には切れ込みがあり そして
秋には紅葉するという エッ
主役は この石塔ではないの そうである この石塔の下に咲くカシワバアジサイである
実は古くから日本にもあったものが 最近一般に出回り始めたという 樹高 50〜200cm
で 低木から亜高木 つる性と変化に富んでいる花である 梅雨の雨は似合いそうもない
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蓼科第二牧場 [スペース]

IMG_1272.JPG
 ビーナスラインの右に広がる
蓼科第二牧場である グリーン
シーズンに 馬や牛を預かる
公共育成牧場で 牧場の先には
雄大な蓼科山や浅間山の風景を
見ることができる 颯爽と走る
馬やのんびりと草を食む牛たち
のフォトを披露したかったが
雄大な牧場の敷地の何処に居る
のか それとも未だ預かって
居ないのか 姿は見えなかった
牧場のすぐ横では「牛乳専科もうもう」が牛乳やソフトクリームなどの乳製品 焼き立ての
パンなどを販売 アイスクリームを求めようとしたが 長蛇の列にグッバイ・ソフト この
アイスクリームや乳製品を求め 駐車場は満杯 いやこの牧場の雄大な空間を愉しむのかも
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遥かなり 白樺湖 [スペース]

IMG_1216.jpg
 白樺湖である 信州らしい
風景のなかに居るが 昔の印象
というか 体感とは少し違う
その違いは何だろうと考えると
今までの信州の爽やかさは
若かった時のエネルギーの発散
に対してのものであり その
ギャップの大きさが爽やかさ
として受け止めていたが 今は
そのギャップが小さいのかな?
そんなことを感じた湖畔でした
白樺という言葉は 当時は新鮮な響きであったが もう過去のものである 太平洋戦争の
直前から直後にかけて ため池を築造した人造湖で 周囲約3.8km 面積約36ha 湖面標高
は1,416m 昭和21年11月に完成した この日も観光客で何処も大いな賑わいを見せていた
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見上げるランドマーク [スペース]

IMG_0098.JPG
 ランドマークタワー 先ほどまで
あの一番天辺の展望台に居たのが
嘘のように思える もっとも夜には
あの展望フロアスカイガーデンから
望む夜景は 格別なものらしい
次回は 展望夜景に挑戦してみよう
さて その下は横浜美術館である
この辺りは初めて歩く場所であり
新鮮な雰囲気である 開館は古く
1989年11月3日 この美術館は
迫力のあるシンメトリーな外観と
吹き抜けの開放的なグランド
ギャラリーが特徴とあり 当館は
7つの展示室のほか 11万冊を
超える蔵書がある美術情報センター
多彩なワークショップを行うアトリエ
なども揃う 国内でも有数の規模を誇る
美術館であると 国際的な港町 横浜に
ふさわしい美術館として 開港以降の近・現代美術を幅広く鑑賞していただけるほか 年間
を通じて 約1万2千点の所蔵品からテーマごとに展示を行うコレクション展 多彩な企画展
を開催していると 横浜の街が育んできた歴史と 発展し続けるみなとみらい21地区の息吹
を感じながら 横浜美術館で充実した時をお過ごしください と大分楽をさせて頂きました
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横浜ワールドポーターズ [スペース]

IMG_0057.JPG
 横浜ワールドポーターズ
奥に赤レンガ倉庫が見える
ここ新港地区は まさに「島」
右側の建物はナビオス横浜で
1999年に開業した10階建て
(高さ約44m)の宿泊施設
左側のショッピングセンターの
横浜ワールドポーターズと隣接
西側は運河パークとなっており
桜木町駅方面より臨港線の
廃線跡を遊歩道として整備した
汽車道が-ホテルの下部を通っている 公園なども多く 観光はもちろん近隣の方にも散歩
コースとして親しまれている もちろん私のように東京都下の人間もOK 隣に位置する
横浜ワールドポーターズは 一日中たっぷりと遊べるショッピングモール 延床面積10万
m²を誇る大型商業施設として1999年にオープン たまに行くのが良い「なみなとみらい21」
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ドックヤードガーデン [スペース]

IMG_0032.JPG
 こちらはランドマーク東側の
日本に現存する商船用石造りの
ドックとしては最も古い
「旧横浜船渠第2号ドック」
残念ながら 先端の一部しか
フォトに収まらなかったが
このドックを後世に伝えるべき
資産として復元 生まれたのが
この「DOCKYARD GARDEN
(ドックヤードガーデン)」
ライブコンサートから各種
プロモーションなどに対応する屋外スペースで 長さ約100m 幅約29mである このような
場所が現存するのは横浜らしいし 横浜であるがゆえに残して行けるのであろう 明治維新
より151年 深さ約10mの造船所のドックであった独特の形状は 歴史を語るに十分である
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久々の港町 横浜 [スペース]

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 久々に横浜へ来た 桜木町駅
私は二組の先輩方のグループと
お会いする機会があり 今日は
集合前の散歩を愉しんでいる
ここ桜木町駅は 以前ブログに
登場したと思うが スタートに
登場する 現在の横浜駅はこの
ひとつ前の駅になるが 開業
当時は ここ桜木町駅に横浜駅
が在り 東海道保土ヶ谷方面に
スイッチバックして運航して
いたため 現在の横浜駅が誕生 東海道へとスムーズに運航する 当時の横浜駅(現桜木町
駅) は 横浜港の貿易の拠点駅で 後に誕生する東海道本線との兼ね合いで 駅名が移動
された がその駅も関東大震災で焼失 現在の横浜駅の場所に移った ストレスの多い駅
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再びレインボーブリッジ [スペース]

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 どうにかフォトを挿入して
レインボーブリッジに戻れた
が 未だパソコンは戻らず
タブレットでの投稿である
早く戻って来てくれ? と
願うばかりである さて
この迫力のあるフォトは
レインボーブリッジの底部
のフォトの続きである と
ここまでタブレットで打ち
込んだら パソコンが戻る
一週間振りである さて上を見ると円形の部分がガラス張りに 多分ここが遊歩道が有料時
に展望台で在った場所と思われる 海上から橋の底にかけて広がる展望であろうか ここを
通る船の姿が一望できるのだが ここから見上げていると 首が疲れるほどの高さである
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天王洲アイル方面 [スペース]

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 芝浦アンカーカレッジから
夕暮れの天王洲アイル方面を
望む 目の前に在る港清掃工場
焼却能力能力600トン/日を
持ち 煙突の高さは約130m
建屋のデザインは睡蓮の花を
イメージしているというが
ここからでは確認は出来ない
天王洲アイル地区は1990年代
高層オフィスビルが次々と建ち
私もお得意先の仕事で通った
天王洲は海中の土砂が堆積してできた州である 1751年(宝暦元年) 江戸前の海であった頃
船人が牛頭天王の面をこの海域から引き上げたといわれ この面は南品川の天王祭において
神輿の屋根につける「神面」となっているが この謂れが「天王洲」の地名の由来となっている
天王洲アイル(isle) とは「島」を意味するが 当時はその響きが斬新であったのを覚えている
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レインボーブリッジ一般道 [スペース]

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 遊歩道サウスルート側の一般
車道 そしてゆりかもめの軌道
である ゆりかもめに乗って
いると 車道間に在るフェンス
が在り 快適な東京湾上の景色
パノラマをを堪能することが
出来ないのは少し残念である
このフォトからは 遊歩道と
一般車道の距離が より近いと
感じて頂けると思うが ガード
は確りと保たれている 今回は
11月1日~3月31日の期間で この遊歩道の開場時間は 10:00~18:00 それが4月1日
~10月31日は9:00~21:00 (最終入場は閉館30分前)と 夜景迄存分に愉しめる時間帯
なるほど 来年の夏は東京はオリンピックで盛り上がっていることになる さて歩いて来た
遊歩道 お台場アンカーカレッジを過ぎれば レインボウブリッジも中央から駆下ることに
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お台場の高級マンション [スペース]

IMG_1636.JPG
 振り返るとお台場ビーチが
そしてパレットタウン大観覧車
が見える 日本最大級の観覧車
で 車窓には羽田空港や西新宿
の超高層ビル群など東京を一望
することが出来る なるほど
夜のスポットも悪くなさそうだ
昔は 船の科学館と海運企業の
倉庫・コンテナ置き場・材木業者
の作業場と事務所くらいしか
なかったが 高層マンションの
姿が目立ち 人口も増加しているという 交通の便はゆりかもめと東京臨海高速鉄道とバス
くらい エッ・・東京湾クルーズもあり(?) 東京高速臨海鉄道でお台場まで 大崎乗り換えで
渋谷から18分 新宿から24分 池袋から29分 意外と近いのに驚く さすが副都心である
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整備された参道 [スペース]

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 参道の行くと その脇には
数々の目を引く石像の数々に
圧倒され 川中島古戦場跡
あるいは松代町内で観てきた
寺社とは その寺の造りが
全く違い 寺社としての風格
や その境内の広さが完成の
域に近いのである 小諸から
真田 松代 長野へ抜ける道
その街道より少し入った場所
に建つこのお寺 その様子は
順次掲載する 今の道は県道35号線といい 新地蔵峠を越えて行くのだという 昔はその
東側に古い峠越えの道があったらしく そちらが地蔵峠 武田典厩信繁の首級は幌で包み
地蔵峠を越えて小諸へ向かったのは そちらの道であろう 改めて知った長野の路である
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長野電鉄 金井山駅跡地 [スペース]

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 長野電鉄屋代線 金井山駅
跡地である 今は山本勘助の墓
や柴阿弥陀堂 大鋒寺を訪れる
人の駐車場として開放されて
いる 長野電鉄屋代線は
長野県千曲市の屋代駅から
長野県須坂市の須坂駅までを
結んでいたが 平成24年に
廃止され 今は長野線として
長野駅から須坂市の須坂駅と
信州中野駅を経由して 終着
湯田中駅までを結んでいる 湯田中温泉は小林一茶が愛した温泉情緒たっぷりの古湯で
志賀高原の入り口に広がる温泉地は 小さい昔ながらの宿が建ち並び素朴な温泉情緒が
味わえる 田圃の中から湧き出る湯ということから「湯田中」という名前が付いたとか
一茶の句碑 「雪ちるや わき捨ててある 湯のけぶり」 この細長い線路の跡地は
須坂駅まで通じる この路線の跡地は松代町内のいたる所でその面影を残している
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隠居住いの大鋒寺 [スペース]

IMG_0144.JPG
 真田信之が隠居を過ごした
大鋒寺である 海津城 そして
真田邸から北へ1.5Kmくらい
山本勘助の墓より200mの場所
である 隠居の本来の意味は
官職を退いて自宅に籠居する
ことで 言葉は平安時代から
あったが 江戸時代の武士の
隠居には願い出によるものと
刑罰によるものとがあったが
前者には老衰 (70歳以上) と
病気との 2種の理由が認められたが 老境に入り 信之はしばしば隠居願を幕府に出した
しかしその度に酒井忠世や酒井忠勝から将軍・徳川家綱の幼少を理由に 隠居せずに幕府を
支えて欲しいと慰留され 明暦元年(1656) 数え91歳でようやく隠居を許され 万治元年
(1658)剃髪して一当斎と号したが 10月に他界 高齢で藩主を務め 享年93歳であった
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大鋒寺へ向かう [スペース]

IMG_1200-1.jpg
 山本勘助の墓の案内板 その
反対側である 地理的には後ろ
の小高い山が妻女山と思われる
川中島古戦場が広い範囲である
のが実感できる場所で ここで
武田そして上杉の双方合わせて
約7000人の兵が戦死した場所
この戦いが無ければ 静かな
場所に終わっていたはずである
時代は少し過ぎた江戸時代に
この地へ移封された真田家 
真田信之の霊屋がこの先に在る 川中島の戦いから約五十年後の1600年 関ヶ原の戦い時
に徳川家に就いた真田家の長男信之が 元和8年(1622年)に上田からここ松代へ移ってきた
そして真田信之が隠居後に晩年を過ごした場所 大鋒寺(だいほうじ)を訪ねることにする 
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信州柴阿弥陀堂跡の碑 [スペース]

IMG_1193.JPG
 山本勘助の墓の前に建つ
信州柴阿弥陀堂跡の碑である
初め 勘助を埋葬した所は
水沢の川端であった その後
千曲川の満水によって川筋が狂い
昔の所は今は千曲川 川中である
寛永の頃 柴の松原に塚を築いて
上に少しの石碑があった これを
勘助塚という そして 原半兵衛
という甲州流の軍学師が 新たに
石碑を柴阿弥陀堂の庭に建てた
ここに在った阿弥陀堂は昭和の初め
300mくらい離れた現在の場所に
移された さすがに山本勘助の墓は
移すことは出来なかったのであろう
その勘助の墓はこの後ろ側に見える
軍師山本勘助 とても引き付けられた
戦国の軍師の一人の墓の前に立つ
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柴阿弥陀堂辺りで [スペース]

IMG_1211.JPG
 山本勘助の墓は初め勘助が討死
した陣ヶ瀬の東「勘助塚」にあり
藩主真田信之の姫君見樹院により
五輪塔も建てられた その後墓が
千曲川の流れにより荒廃していく
のを憂え1739年(元文4年) 
松代藩家老鎌原重栄と原正盛らが
遺骨とともに墓を信玄ゆかりの
阿弥陀堂境内に移し墓碑を建立した
墓石には寒松山大林寺和尚の碑文
により 勘助の一生と墓移転の
経過が詳しく刻まれた 1809年
(文化6年)重栄の孫鎌原重賢が
勘助死後250年の節目を迎え
末永く墓を守るために 高く
石積みをした この経緯についても
重賢の碑文により墓石に刻まれた 
こうして勘助の墓は松代藩士らにより大切に保護されて来たもの この五輪塔は 勿論
当時のものとは思えないが 地元の人の思いの表れ・・・いや五輪塔の形式は石造では 
五輪の下から 地輪は方形(六面体) 水輪は球形 火輪は宝形又は屋根型 風輪は半球形
空輪は宝珠型によって表されるものだが このシリーズのどこかで紹介できるかもしれない
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八幡原の東昌寺 [スペース]

IMG_1797.JPGDSC_0922.JPG こちらは広田城(跡)である
城というよりは砦跡で 広田砦
(ひろだとりで)は昌龍寺辺り
からこの東昌寺辺りにかけて
武田方の川中島中央部の押さえ
として弘治年中(1555~1558)
に築かれた砦といわれる
武田信玄は安曇郡千見城主・
大日方(おびなた)佐渡守直長に
この地を所領として与え守らせ
のち直長の子・山城守直家が
後を継いだが 武田家滅亡後
大日方氏は本領水内郡小川に
戻り 砦は壊されたという
広田砦は 東西約54m 南北
約90m 外郭東西約144m
南北約164mほどで 周囲には
濠がめぐらされていた 昌龍寺
を取り囲む道路は 砦の濠跡で
砦の跡地に真田家6代藩主幸弘
が創建した東昌寺(東昌禅寺)
には 砦の一部と伝えられる
土塁の跡が残っている 狐丸
(桑山茂見の墓)から見えたこの
東昌寺の朱色の屋根 何処かで
見たように記憶があると
思ったら 屋根の大棟には六文銭が なるほど 松代藩真田藩主幸弘が創建したもの その
姿に魅かれ訪ねた東昌寺 近くの昌龍寺も同じように朱の屋根であった 熱い川中島の戦い
の戦場を巡り歩いたが 私はこの日 熱い戦を強いられる日となるとは思いもよらなかった
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