面影橋駅と面影橋 [スペース]
神田川にかかる橋 面影橋 この地に住んでいたという
於戸姫が美貌ゆえ 次々と災難にあい それを苦に
髪を切り その姿を川面に映して身を投げたという
悲話により 里人が思いやり 名付けたといわれる
太田道灌所縁の山吹の里伝説や 面影橋北側の
一帯は砂利がとれ 「砂利場村」があり またここは蛍の名所であり
他ではみられない大きな蛍が飛び交 っていたと言うが
今やその面影も無い 面影橋辺りである
半田稲荷神社東参道 [スペース]
こちらが 直接水戸街道に通ずる東参道である
一の鳥居 そして二の鳥居の在る山門は
南方に伸び 現在は左へ小さな「Lの字」で結ばれる
柴又の帝釈天の開創は江戸時代初期の寛永6年(1629年)
「柴又帝釈天」が信仰を集めるようになったのは
18世紀末のころであり それまではこの手前に鎮座する
創建 平安時代末期 元暦2年(1185年)の葛西神社があった
この辺りは長く下総国に属し 江戸時代になると江戸川を境に
武蔵国に属した おかげ様で 端っこの東京都である
東向く神楽殿 [スペース]
神楽殿である 神道の神事において神に歌舞を奏 奉納するための場所で
神楽を舞うための施設で その語源は
「神座」(かむくら・かみくら)が転じたとされ
古事記・日本書紀の岩戸隠れの段で アメノウズメが神懸りして
舞った舞いが神楽の起源とされている
神楽は 宮中の御神楽(みかぐら)と 民間の里神楽(さとかぐら)に分けられるという
所沢上空の自衛隊機 [スペース]
高速都心環状線 [スペース]
千鳥ヶ淵緑道の手前は高速都心環状線で 西神田や竹橋方面から来た車は 千鳥ヶ淵のお濠
の手前の北の丸トンネルを出て お濠の上を過ぎて 千鳥ヶ淵交差点の手前で また地下に
潜って行く トンネル内で直ぐに中央高速道路 東名高速道路・都心環状線方面に分かれる
トンネル間のこの場所だけ 騒音が甦り 北の丸公園の閑静な江戸の佇まいを乱している
の手前の北の丸トンネルを出て お濠の上を過ぎて 千鳥ヶ淵交差点の手前で また地下に
潜って行く トンネル内で直ぐに中央高速道路 東名高速道路・都心環状線方面に分かれる
トンネル間のこの場所だけ 騒音が甦り 北の丸公園の閑静な江戸の佇まいを乱している
地蔵堂新築工事 [スペース]
豪徳寺 地蔵堂新築工事
山門を入って右側 鐘楼の手前
に建てられている 豪徳寺は今
開祖堂 そして書院も工事中で
ブログは 過去のフォトを折り
混ぜながら構成している
墓地がそうであったように
昨年の台風による被害なのかは
解らないが 修理中である
いつ完成予定なのか解らないが
またひとつ 愉しみが増えそう
だが その頃は別の場所を集中
して散歩をしているかもである
東急世田谷線の沿線は 大分
歩いて もう残りのエリアは
少ないが 世田谷エリアは
まだ散策の余地は充分残って
いる 武蔵野は江戸よりも歴史
が古く 最近はなかなか面白い
エリアであると思っている
多摩川の存在が この地域の
歴史に大きく絡んでいると
思われる 835年に朝廷が
発した官符では 丸子の渡し近傍をもって「武蔵国石瀬河」と呼称されている なるほど
黄葉の国士舘大学 [スペース]
世田谷区役所の前の鮮やかに
黄葉していた公孫樹の木がこれで
実はここ 国士舘大学である
1917年(大正6年) 港区麻布笄町に
私塾国士舘創立 1919年(大正8年)
世田谷キャンパスの現在地へ移転
『大正維新の松陰塾たらん』と
吉田松陰の精神を範とし 日々の
「実践」のなかから心身の鍛練と
人格の陶冶をはかり 国家社会に
貢献する智力と胆力を備えた人材
「国士」を養成する国士舘大学が
この地に在るのは当然と思われる
「読書・体験・反省」の実践
「誠意・勤労・見識・気魄」の涵養
国士舘大学の教育理念
吉田松蔭の言葉「百年一瞬耳」
「百年の時は一瞬にすぎない 君たちはどうかいたずらに時を過ごすことのないように」
墓域案内図 [スペース]
世田谷のチシャノキ [スペース]
境内のほぼ中央に立っているのは
チシャノキである さほど広くない
境内にあって 境内の中央に立つ
この木の存在は大きく 樹齢100年
以上の巨木であるという あまり
聞いたことの無い名前だが その
名の由来が面白い この木の若葉は
食用にすることができて その味は
「チシャ(レタス)」に似ていること
からついたという またこの木の
樹皮や葉がカキノキに似ていること
から 別名カキノキダマシともいう
広葉樹・落葉高木のこの木は 暖地に
生え 高さ10~20mになるという
6~7月頃 枝先に円錐花序を作り
白い小さな花を咲かせ 9~10月頃
直径2㎝ほどの果実が 枝先に
たわわに実り 果実は玉ねぎを模したような形をしているという あまり見かける
ことの少ない 珍しい木なのか 良く見るとかなり特徴のある形をした樹木である
渋谷駅前 多摩川通り [スペース]
渋谷駅前の多摩川通りである
スクランブルスクエアから人の
流れに従い 歩いてきたら
いつの間にか西口の出口に
そういえば 改札の前を通った
記憶もあるのだが 相変わらず
自分が何処にいるのか良く分ら
ないのは変わら無い 目の前に
広がるこの光景 国道246号の
上を 首都高速3号渋谷線が
駅前に延びているが 渋谷の街
は今 どちらを向いても駅周辺開発であり 将来は桜丘口地区と道玄坂一丁目駅前地区
(東急プラザ渋谷跡)を結ぶ西口デッキと地下歩道の整備を進め 施設と駅とをつなぐ
アーバンコア(縦移動を誘導するもの)やデッキ(横移動を誘導するもの)が新設され
より多層的な歩行ネットワークが確保されるというが 2027年度頃までの予定である
玄関脇の第一応接室 [スペース]
玄関を入り あのモザイクの床の
右に通ずる 第一応接室である
「香水塔」の左側にあたる
玄関を入って左の間口から直接入る
ことができる部屋で 宮家を
訪ねた来賓の御用係や供待が
主人を待つ部屋として使用され
室内の柱・扉・窓枠に使用されている
木材はカエデ材で統一されている
床は市松張りにされたケヤキ材
の周りに黒檀やカリンが配された
寄木張りになっているが 今回は
展示会開催中なので 床はシートが
敷かれ 保護されていて 残念ながら
観ることは出来ない 小さな部分だが
ひとつひとつ 丁寧に仕上げている
壁紙は竣工当時のものではないが
当時と同じ スイスサルブラ社製の
テッコーシリーズで復原されている
金町松戸 関所跡 [スペース]
金町・松戸関所跡である
ここは 江戸時代に利根川筋江戸川
と水戸街道の渡船場 金町と松戸の
間に設置された関所である
元和2年(1616年) 家康の死後に
関東河川の定船場16か所に定め掟書
がだされ 利根川筋の渡船場を
拠点に設置された関所の一つである
旧水戸街道宿場町 松戸宿へ渡るのが
金町・松戸の渡しで 江戸幕府は
江戸防衛のために江戸川に架橋をせず
対岸に渡るには 渡し舟を利用していた
1869年(明治2年)に関所が廃止され
関所の建物は全て取り壊されたたが
この関所の跡は 厳密には関所が
在ったところとは異なるという
ちなみに 先日の残暑見舞いの花火は
この少し先の堤の上で撮ったものである
ここは 江戸時代に利根川筋江戸川
と水戸街道の渡船場 金町と松戸の
間に設置された関所である
元和2年(1616年) 家康の死後に
関東河川の定船場16か所に定め掟書
がだされ 利根川筋の渡船場を
拠点に設置された関所の一つである
旧水戸街道宿場町 松戸宿へ渡るのが
金町・松戸の渡しで 江戸幕府は
江戸防衛のために江戸川に架橋をせず
対岸に渡るには 渡し舟を利用していた
1869年(明治2年)に関所が廃止され
関所の建物は全て取り壊されたたが
この関所の跡は 厳密には関所が
在ったところとは異なるという
ちなみに 先日の残暑見舞いの花火は
この少し先の堤の上で撮ったものである
カシワバアジサイ [スペース]
蓼科第二牧場 [スペース]
遥かなり 白樺湖 [スペース]
見上げるランドマーク [スペース]
ランドマークタワー 先ほどまで
あの一番天辺の展望台に居たのが
嘘のように思える もっとも夜には
あの展望フロアスカイガーデンから
望む夜景は 格別なものらしい
次回は 展望夜景に挑戦してみよう
さて その下は横浜美術館である
この辺りは初めて歩く場所であり
新鮮な雰囲気である 開館は古く
1989年11月3日 この美術館は
迫力のあるシンメトリーな外観と
吹き抜けの開放的なグランド
ギャラリーが特徴とあり 当館は
7つの展示室のほか 11万冊を
超える蔵書がある美術情報センター
多彩なワークショップを行うアトリエ
なども揃う 国内でも有数の規模を誇る
美術館であると 国際的な港町 横浜に
ふさわしい美術館として 開港以降の近・現代美術を幅広く鑑賞していただけるほか 年間
を通じて 約1万2千点の所蔵品からテーマごとに展示を行うコレクション展 多彩な企画展
を開催していると 横浜の街が育んできた歴史と 発展し続けるみなとみらい21地区の息吹
を感じながら 横浜美術館で充実した時をお過ごしください と大分楽をさせて頂きました
横浜ワールドポーターズ [スペース]
横浜ワールドポーターズ
奥に赤レンガ倉庫が見える
ここ新港地区は まさに「島」
右側の建物はナビオス横浜で
1999年に開業した10階建て
(高さ約44m)の宿泊施設
左側のショッピングセンターの
横浜ワールドポーターズと隣接
西側は運河パークとなっており
桜木町駅方面より臨港線の
廃線跡を遊歩道として整備した
汽車道が-ホテルの下部を通っている 公園なども多く 観光はもちろん近隣の方にも散歩
コースとして親しまれている もちろん私のように東京都下の人間もOK 隣に位置する
横浜ワールドポーターズは 一日中たっぷりと遊べるショッピングモール 延床面積10万
m²を誇る大型商業施設として1999年にオープン たまに行くのが良い「なみなとみらい21」
ドックヤードガーデン [スペース]
久々の港町 横浜 [スペース]
再びレインボーブリッジ [スペース]
天王洲アイル方面 [スペース]
芝浦アンカーカレッジから
夕暮れの天王洲アイル方面を
望む 目の前に在る港清掃工場
焼却能力能力600トン/日を
持ち 煙突の高さは約130m
建屋のデザインは睡蓮の花を
イメージしているというが
ここからでは確認は出来ない
天王洲アイル地区は1990年代
高層オフィスビルが次々と建ち
私もお得意先の仕事で通った
天王洲は海中の土砂が堆積してできた州である 1751年(宝暦元年) 江戸前の海であった頃
船人が牛頭天王の面をこの海域から引き上げたといわれ この面は南品川の天王祭において
神輿の屋根につける「神面」となっているが この謂れが「天王洲」の地名の由来となっている
天王洲アイル(isle) とは「島」を意味するが 当時はその響きが斬新であったのを覚えている
レインボーブリッジ一般道 [スペース]
遊歩道サウスルート側の一般
車道 そしてゆりかもめの軌道
である ゆりかもめに乗って
いると 車道間に在るフェンス
が在り 快適な東京湾上の景色
パノラマをを堪能することが
出来ないのは少し残念である
このフォトからは 遊歩道と
一般車道の距離が より近いと
感じて頂けると思うが ガード
は確りと保たれている 今回は
11月1日~3月31日の期間で この遊歩道の開場時間は 10:00~18:00 それが4月1日
~10月31日は9:00~21:00 (最終入場は閉館30分前)と 夜景迄存分に愉しめる時間帯
なるほど 来年の夏は東京はオリンピックで盛り上がっていることになる さて歩いて来た
遊歩道 お台場アンカーカレッジを過ぎれば レインボウブリッジも中央から駆下ることに
お台場の高級マンション [スペース]
整備された参道 [スペース]
長野電鉄 金井山駅跡地 [スペース]
長野電鉄屋代線 金井山駅
跡地である 今は山本勘助の墓
や柴阿弥陀堂 大鋒寺を訪れる
人の駐車場として開放されて
いる 長野電鉄屋代線は
長野県千曲市の屋代駅から
長野県須坂市の須坂駅までを
結んでいたが 平成24年に
廃止され 今は長野線として
長野駅から須坂市の須坂駅と
信州中野駅を経由して 終着
湯田中駅までを結んでいる 湯田中温泉は小林一茶が愛した温泉情緒たっぷりの古湯で
志賀高原の入り口に広がる温泉地は 小さい昔ながらの宿が建ち並び素朴な温泉情緒が
味わえる 田圃の中から湧き出る湯ということから「湯田中」という名前が付いたとか
一茶の句碑 「雪ちるや わき捨ててある 湯のけぶり」 この細長い線路の跡地は
須坂駅まで通じる この路線の跡地は松代町内のいたる所でその面影を残している
隠居住いの大鋒寺 [スペース]
真田信之が隠居を過ごした
大鋒寺である 海津城 そして
真田邸から北へ1.5Kmくらい
山本勘助の墓より200mの場所
である 隠居の本来の意味は
官職を退いて自宅に籠居する
ことで 言葉は平安時代から
あったが 江戸時代の武士の
隠居には願い出によるものと
刑罰によるものとがあったが
前者には老衰 (70歳以上) と
病気との 2種の理由が認められたが 老境に入り 信之はしばしば隠居願を幕府に出した
しかしその度に酒井忠世や酒井忠勝から将軍・徳川家綱の幼少を理由に 隠居せずに幕府を
支えて欲しいと慰留され 明暦元年(1656) 数え91歳でようやく隠居を許され 万治元年
(1658)剃髪して一当斎と号したが 10月に他界 高齢で藩主を務め 享年93歳であった
大鋒寺へ向かう [スペース]
信州柴阿弥陀堂跡の碑 [スペース]
柴阿弥陀堂辺りで [スペース]
山本勘助の墓は初め勘助が討死
した陣ヶ瀬の東「勘助塚」にあり
藩主真田信之の姫君見樹院により
五輪塔も建てられた その後墓が
千曲川の流れにより荒廃していく
のを憂え1739年(元文4年)
松代藩家老鎌原重栄と原正盛らが
遺骨とともに墓を信玄ゆかりの
阿弥陀堂境内に移し墓碑を建立した
墓石には寒松山大林寺和尚の碑文
により 勘助の一生と墓移転の
経過が詳しく刻まれた 1809年
(文化6年)重栄の孫鎌原重賢が
勘助死後250年の節目を迎え
末永く墓を守るために 高く
石積みをした この経緯についても
重賢の碑文により墓石に刻まれた
こうして勘助の墓は松代藩士らにより大切に保護されて来たもの この五輪塔は 勿論
当時のものとは思えないが 地元の人の思いの表れ・・・いや五輪塔の形式は石造では
五輪の下から 地輪は方形(六面体) 水輪は球形 火輪は宝形又は屋根型 風輪は半球形
空輪は宝珠型によって表されるものだが このシリーズのどこかで紹介できるかもしれない
八幡原の東昌寺 [スペース]
こちらは広田城(跡)である
城というよりは砦跡で 広田砦
(ひろだとりで)は昌龍寺辺り
からこの東昌寺辺りにかけて
武田方の川中島中央部の押さえ
として弘治年中(1555~1558)
に築かれた砦といわれる
武田信玄は安曇郡千見城主・
大日方(おびなた)佐渡守直長に
この地を所領として与え守らせ
のち直長の子・山城守直家が
後を継いだが 武田家滅亡後
大日方氏は本領水内郡小川に
戻り 砦は壊されたという
広田砦は 東西約54m 南北
約90m 外郭東西約144m
南北約164mほどで 周囲には
濠がめぐらされていた 昌龍寺
を取り囲む道路は 砦の濠跡で
砦の跡地に真田家6代藩主幸弘
が創建した東昌寺(東昌禅寺)
には 砦の一部と伝えられる
土塁の跡が残っている 狐丸
(桑山茂見の墓)から見えたこの
東昌寺の朱色の屋根 何処かで
見たように記憶があると
思ったら 屋根の大棟には六文銭が なるほど 松代藩真田藩主幸弘が創建したもの その
姿に魅かれ訪ねた東昌寺 近くの昌龍寺も同じように朱の屋根であった 熱い川中島の戦い
の戦場を巡り歩いたが 私はこの日 熱い戦を強いられる日となるとは思いもよらなかった
城というよりは砦跡で 広田砦
(ひろだとりで)は昌龍寺辺り
からこの東昌寺辺りにかけて
武田方の川中島中央部の押さえ
として弘治年中(1555~1558)
に築かれた砦といわれる
武田信玄は安曇郡千見城主・
大日方(おびなた)佐渡守直長に
この地を所領として与え守らせ
のち直長の子・山城守直家が
後を継いだが 武田家滅亡後
大日方氏は本領水内郡小川に
戻り 砦は壊されたという
広田砦は 東西約54m 南北
約90m 外郭東西約144m
南北約164mほどで 周囲には
濠がめぐらされていた 昌龍寺
を取り囲む道路は 砦の濠跡で
砦の跡地に真田家6代藩主幸弘
が創建した東昌寺(東昌禅寺)
には 砦の一部と伝えられる
土塁の跡が残っている 狐丸
(桑山茂見の墓)から見えたこの
東昌寺の朱色の屋根 何処かで
見たように記憶があると
思ったら 屋根の大棟には六文銭が なるほど 松代藩真田藩主幸弘が創建したもの その
姿に魅かれ訪ねた東昌寺 近くの昌龍寺も同じように朱の屋根であった 熱い川中島の戦い
の戦場を巡り歩いたが 私はこの日 熱い戦を強いられる日となるとは思いもよらなかった