醤油の街を歩き出す [気ままに散歩]
自分が歩いている道と 地図が重ならず 迷いながら歩いていると
出逢ったのが この珍しい色の長い塀の家である
初めは解らなかったのだが 解放されているようであり
門構えは立派手だが お寺では無さそうである
この曖昧な時間の経過は またぶらり散歩の面白さだが
不安も携えていることは確かである 人がひとり 門を入って行く
そして別の二人が 外へと出て来るが 混んではい無さそうであり
門の前に行ってみることにする 野田市の散策が始まる
野田市観光案内 [な~るほど]
さて 例によって何も調べずに行き当たりバッタリの気ままな散歩
キッコウマンの工場を避け 街中へと歩き出した とりあえず
野田市駅の改札口に観光マップがあり 携帯フォトに収めた
これがそのフォトである 歩き出すと至る所にキッコウマン
関係の会社がやたらに目に付き この街はキッコウマンの街
と言うよりは この街が生んだキッコーマンなのだと
そんな感じのする佇まいである
キッコーマン・本社 [めぐり逢い]
野田市に在るキッコーマン株式会社の本社である
本店 野田工場のほか 国内拠点の約半分が創業地である
ここ野田市周辺に集中している さて醤油統一商標を
「亀甲萬」としたが 茂木佐平次家の用いた商標「亀甲萬」は
香取神社の亀甲と「亀は萬年」を かけたとされ
キッコーマンのロゴマークは 下総国の一の宮である香取神宮は
「亀甲」を山号としていて 神宝は「三盛亀甲紋松鶴鏡」という鏡
鏡の裏の亀甲模様を図案化し 亀は万年の「万(曼)」にあやかり
亀甲にちなんで「萬」の文字を入れ 「亀甲曼」を完成させたという
醤油造りの街 野田市 [な~るほど]
野田市の東側の利根川沿いは大豆や小麦の生産地 西を流れる
江戸川下流には 行徳塩田があり 大消費地の江戸にも通じ
醤油造りに有利な条件が揃っていた野田周辺 醤油造りの始まりは
天明2年(1782) 茂木佐家は茂木七左衛門(通称茂木本家)の
初代・次男が独立し 醤油醸造業を始め 本印(ほんじるし)が亀甲曼
本印とは最も上にランクされた ブランドの尊称で
各醸造家ごとに持っていたもの 醤油の生産地の野田には
様々な醤油醸造家が存在したが 大正6年(1917)に
有力醸造業者であった茂木一族と髙梨一族の8家が合同して設立したのが
「野田醤油株式会社」となり 複数あった醤油商標のうち
亀甲曼が本印となり 後に社名としたという
利根川の水運の街 [な~るほど]
野田市駅に着くと飛び込んで来るのは 六角形に「萬」の字のマーク
キッコーマン 日本語だと「亀甲萬」
なぜ野田市に醤油工場が在るのかは‥‥
江戸時代 徳川家康の命令で 江戸湾に流れていた利根川の流れを
約60年かけて東に変える東遷が行われ 承応3年(1654)に
河口を銚子へ移す利根川東遷事業が完成したことにより
銚子から関宿を経由して江戸川を下り 小名木川を伝って
江戸に物資を運ぶルートが完成 野田の歴史はこの水運から始まる
なるほど 佐原の街と同じなのである
お散歩はどちらまで(?) [気ままに散歩]
さて 雨の合間の快晴の日に 飛び乗った電車で出掛けたのは
野田市である 以前何処かで手に入れたパンフフレットがあり
面白そうだと思い出掛けた とここまでは良かったのだが
常磐線を乗り換え 野田市駅へ向かう切符を買い求めたが
駅名が無いのである 仕方なく改札口の駅員に訪ねた
「すみません 野田市駅へ行きたいのですが 駅名がないので」
と問うと 「お客さん 野田市駅は柏から出ている東武の駅です」
エッ 私は馬橋駅の流鉄流山線の改札口にいたのである
以前 ここから流山まで行き その思い込みがこの結果で
気持ちだけが先行し とんでもないことをやらかした
柏から東武野田線(アーバンパークライン)に乗り
やっと着いたのが この野田市駅であった
定まらぬ季節に蝋梅 [めぐり逢い]
蝋梅である 中国ではブログにも登場した梅・水仙・椿
とともに 「雪中の四花」として尊ばれているというが
この四つの植物のなかで 一番目に触れないのが
この蝋梅である と思っていたら近所に咲いているのだから
面白いものである それも私のお気に入りの構図でゲット
もちろん 何処かで出逢った蝋梅を調べて行くうちに
「雪中の四花」と解るわけだが 散歩して出逢うことで
このような広がりを伴ってくるのは また愉しいものであるが
来年蝋梅が咲くのを観て また同じことに目を触れるのも事実である
そう 気ままな散歩だから おや こちらは「もうひとつの時間」であった
春を呼ぶ 梅一輪 [めぐり逢い]
こちらは梅一輪 小さな花ながらも 期待と希望が
たくさん詰まっている花である 私には似合わないが
ほっこりする という表現があっているように思える
私はほっこりの表現を言葉ではなく フォトのなかに
求めているのかも知れないが それが全てではないとも思う
この梅の花 良く見ると梅のご紋章に見えてくるのだが
もちろんそのようなものは無い 梅の紋章(家紋)を用いたのは
菅原道真の子孫を称した加賀の前田家 特に区別をした「加賀梅鉢」
梅紋は 天神信仰の広まっている近畿 北九州地方に多く
分布しているという 美しく品のある八重咲の梅の花である
春に向かう梅の花 [めぐり逢い]
さて花の違いのなかに梅と桃の花がある
この花は‥・梅である なぜって 桃は花と葉が同時に開くから
であり 以前学習したが これはその瞬間に判断できるので
解り易い 紅梅と違ってピンク色の梅も白梅と同様
春に近いと感じるのは 色彩が伝える 自分のなかにある
イメージにほかならず 希望と期待も絡んでいる
何れにしてもまだ二月の下旬で 三月に咲く桜までは
もう少し時間が掛かることに変わりはない
今年はいつ咲くのか 巡る季節はもう直ぐそこにある
春の光を呼ぶ白梅 [時節]
今年は梅の花も 早く終わってしまうのかと思ったら
立春を過ぎて 寒い日が多くなり 梅の花も
その勢いを取り戻したかのように 花に艶が甦る
春を迎える準備にとり掛かるには 絶好なのだが
今まで暖かかった分だけ 寒さが凍みる毎日であり
と思えば 暖かい日が割り込むなど 冬なのか春なのか
何を着たら良いのか 季節の狭間が続いている
この一週間は 曇りや雨の日が多く 晴れた日には 誘われるように
散歩に出掛けるこの頃であり 季節の変化が観られる
丘・まるごとスイセン [ブラボー]
こちらは小高い丘一面に咲く スイセンである
歩いているとこんな光景に出逢うのがおもしろく
のめり込むと言うよりは 歩かなければ出会えない心境で
出会えなくても また歩き出すのである
スイセンは多年生草本なので 毎年同じ時期に同じ場所に
咲いていて 長さ30~45cm 幅1~1.8cm程
その原種および花形 花色 草姿などから12系統に分類され
その代表的な種類には ラッパズイセン 八重咲きスイセン
房咲きスイセン 口紅スイセンなどがあるという
系統によっては開花時期が異なり 早いものでは11月中に咲き
ラッパズイセンなどは3月~4月に開花する
いずれも秋から初夏にかけて生育し 夏には枯れて休眠する
これは椿か山茶花か [めぐり逢い]
こちらは椿である 断言できるのは 一輪の花が
そのまま落ちていたからであり ただそれだけであり
瞬間的に飛び出す花の名前が 必ずしも
正解しないのが常であり 大体において「多分」で過ごしている
フォトはその「多分」を確認する為か 「多分」を越えているものを
撮っているのかも知れないのだが だからと言って
撮らないものをすべて知っている訳ではなく 自分と
どこかで接点があっただけのことなのかもしれないが
撮るときは さほど気にせず 撮っているのである
山茶花の咲く道に [時節]
随分と長い時間を掛けて 川越の気ままな散歩は終わった
すべてを巡ったわけでは無く また訪ねたい想いはある
東京に身近な あの独特な時空の中を歩く気分が落ち着いて来るのは
このように咲く 美しい花と出会った時に似ている
それは 人の心をくすぐっているかの様であり
癒されているのか 満足感なのか 出逢いなのかは解らない
フォトは山茶花であり 毎年山茶花を観ているのだが
毎年 山茶花かな(?) それとも椿(?)と 花の散り方を
確認するのだが まだ落花はしておらず 多分という
言葉を残して 時が過ぎるのである
川越土産の「芋ぽて」 [気ままに散歩]
かなりの時間を掛けて川越を巡って来た
早朝に出掛け 四時までに帰るのが目標である
その度に買い求めたお土産がこの「芋ぽて」である
家について珈琲を点て 散歩後のお芋のお土産で余韻に浸る
さつま芋は普段あまり食べないのだが このお菓子は
さつま芋の素材の美味しさ そして風味 触感が気に入り
行くたびに買い求める一品である 冷やしても良し
この芋の風味を味わいながら 川越散歩を終了する
東武東上線 川越駅 [な~るほど]
川越のアーチ橋踏切から川越駅を望む 右側がJRの駅で
左側が東武東上線ののホームである
東武東上線では 池袋と川越を最速26分で結ぶ「川越特急」
池袋から川越の間は朝霞台のみに停車で運行されているが
この電車は平日5本 土休日は6本の運行だという
東京に近いこともあり 年々観光客が増えていて 現在は
年間観光客は約700万人以上 外国人の訪問が増しているという
人口約35万人の川越は 江戸時代には川越藩の城下町として栄え
その後も商都として栄え 寺社や歴史的な街並みが広がり
日本の現在と歴史が共存していることが 魅力なのであろう
江戸(東京)とは違い 比較的小さなエリアに
集中していることも 人気の一因に在る
川越のアーチ橋踏切 [めぐり逢い]
クレアモールを南下すると行きつくのは
JR そして東武東上線の川越駅に近い踏切である
線路上は川越の名物になっているというアーチ橋踏切である
このアーチ橋の左側が JRと東武東上線の川越駅である
今まで 歴史と街として捉えて来た空間が クレアモール
そして川越駅周辺は もう都会の雰囲気と変わらず
ビル群と 交通の要所 いわゆる現代へと様子が変わる
この街は川越と言うよりは 時越え 歴史越え
と言った方が似合う街である 古きものと
新しい街が両隣に共存する そんな街である
街並み クレアモール [時空]
この通りは川越一番街商店街 蔵造りの町並みを
南へと下って来て 西武新宿線の本川越駅の東側にある
クレアモールという商店街の総称で 川越駅東口から
本川越駅近くまで続く ほぼ真北に1,200mとなる商店街
「クレアモール」の名称の由来は Create(創造する)とMall(遊歩道)の
混成語だといい さらに北に続く大正浪漫夢通り 川越一番街
川越菓子屋横丁などとともに 日本のがんばる商店街
77選に選ばれていて 近年の日本の都市の中心市街地空洞化の中では
例外的に賑っている商店街であるという
川越一番街の蔵造りの街並みとは 全く違う雰囲気であるが
電柱が無く 本御影石の歩道 すっきりとした商店街である
西武鉄道 本川越駅 [めぐり逢い]
さて 帰途に着こうと駅方向に向かって歩き出したが
着いた駅は 目指す東武東上線の川越駅ではなく
西武新宿線の本川越駅であった 川越には
東武鉄道 西武鉄道 JRと三社が乗り入れていて
東武とJRが同じ川越駅 西武はすこしはなれたここ
本川越駅が新宿と結ばれている 東武は池袋である
私は ほぼ直線的なルートを採用している東武東上線を
利用して 池袋 日暮里経由で帰宅である
コロナ流行の最中に [気ままに散歩]
最近 観光地でよく見かける人力車である
観光を昔スタイルの移動方法で ゆっくりと楽しむのだが
まだコロナ感染 最高潮の時だったので このように
休業状態で 走っている姿は見なかった
でも そんな時期に私は 日光 佐原 栃木 そして
川越へと 何回も足を運び 愉しんでいたのである
そう コロナに感染したのは 一番最後に
友人と日光ドライブに行った 一週間くらい後のことであった
川越の四季を求めて [気ままに散歩]
そのなかでも武蔵国・川越は観光し易い街である
川越は一番街をメインに 蔵造りの商店が集中していることであり
商人や庶民の暮らしている足跡が そこから見えて来る
同国異空間が街並みとして 保存されているのは一見の価値があり
神社仏閣 そして豪商のお屋敷跡などの他に 伝統や歴史文化が
感じられる街で 東京からさほど遠くないことも有難い
次回は何時訪ねようか 四季をも考えながら模索中である
川越氷川神社裏の桜咲く新河岸川も良いかも
四度訪ねた小江戸川越 [ブラボー]
結局 川越は四度訪ねた 江戸時代に川越城の城下町として
栄えた川越は広いエリアで その情緒に浸っているだけで
一日を終えてしまう感じ ましてカメラを持ってフォト散歩となると
時間はいくらあっても 足りない状況で また訪れる予定である
「江戸のように栄えた町」「江戸時代を感じさせる町」の小江戸
私は下総国・佐原を皮切りに 武蔵国・川越 下野国・栃木を巡った
交通の要 舟運の要所となったことがその背景にあるが
江戸幕府や江戸庶民とのとの繋がりが 繁栄をもたらせた都市であり
歴史を肌で感じ また目に映り 知識を潤す そんな街である
巡った川越散歩 [気ままに散歩]
さて 長らく川越を散策して来たが フォトは
川越八幡宮境内に置かれていた 犬の石像である
時節は立春が過ぎ 今日は雨水である
雨水とは厳しい寒さが和らぎ 暖かい陽気になって
雪や氷が解け 草木が芽吹くころなのだが
温暖化の影響はこのところの季節をも変えて行く
これまで心に住み着いた季節感 その時期に
ふさわしい様子が だんだんとずれてきている
と感じるこの頃だが 先人の記した二十四節気
季節を表す言葉として 自然と関わりとして生きている
再会(サイカチ)の木 [めぐり逢い]
先に掲載した稲荷神社のすぐ横に在ったのが再会の木
これは再会(サイカチ)の木と読むらしい
川越八幡宮の御祭神・応神天皇の母 神功皇后(じんぐうこうごう)は
このサイカチは 神功皇后がその昔 朝鮮出兵にあたり
大宰府の霊峰 標高829.6mの宝満山に登られ 戦に勝ち続ける
戦に勝ち続ける「再勝(さいかち)」と 凱旋したのちの「再会」を祈り
植えられた木 この木に逢いたい人との再会を願えば
再開が叶い 「復縁の木」として また「縁結びの神」として
魂と魂を引き寄せる・引き合わせる 良縁を求める人々の
参拝が絶えないというが まだ植えられたばかりのようである
葉書きの語源の木 [な~るほど]
木々に覆われ 朱塗りの灯篭が並ぶのは川越八幡宮の裏参道である
夕刻からは灯籠の光に参道が照らされ 幽玄な雰囲気を
醸し出すこの光景は 川越市の都市景観賞に選ばれている
木々の多く茂る神社の境内 本殿横にはタラヨウ(多羅葉)「はがきの木」
があり 葉の裏側に文字が書けるという 文字は最初はハッキリしないが
段々と浮き上って来て 一度書いた文字は消えることは無く
昔は 恋文や約束事を書いて保管されていたと言われる
漢字では「葉書」と書くが そのルーツは樹木からなる「葉」から
来ているのには驚きである 樹木「タラヨウ(多羅葉樹)」である
「ぐち聞きさま」 [めぐり逢い]
こちらは川越三峯神社の左側に鎮座するのは「ぐち聞きさま」
御祭神は聖徳太子 「ぐち聞き様」は聖徳太子のお姿をしている
太子は「一度に十人もの訴えを聞き分けた」と言われていて
苦しみ悩む多くの人の救いとなって来たという
参拝者は「ぐち聞き様」に 人に言えないこと 心の内のモヤモヤなど
なんでもお話して 悩みを打ち明けたあとは
こころを元気にするお守り 心身不安除御守をを身につけるのだと
川越三峯神社 [な~るほど]
稲荷神社の左奥に鎮座するのは 川越三峯神社である
御祭神は伊弉諾命(いざなぎのみこと) 伊奘冉命(いざなみのみこと)
明治元年(1868)に 秩父市にある三峯神社の遥拝所として創建されました
遥拝所(ようはいじょ)とは 遠く離れた所から神仏などを
はるかに拝むために設けられた場所のことである
遥拝所は川越八幡宮創建一千年祭の記念事業の一環として
遥拝所や社号票を一新して改めて遷座祭が執り行われたという
稲に宿る神 稲荷神社 [めぐり逢い]
菅原神社の先に鎮座する末社 稲荷神社である
御祭神は倉稲魂神(うかのみたまのみこと) 稲に宿る神霊である
五穀豊穣をもたらすとともに 稲が1粒から多くの実りをもたらす
ことから 商売繁盛の神様として篤く信仰されている
京都市にある伏見稲荷大社が神道上の稲荷神社の総本宮で
神仏分離の際 稲荷神社は多数の神道系と少数の仏教系とに
分かれたという 神社のうちで稲荷神社は2970社(主祭神として)
32000社(境内社・合祀など全ての分祀社)を数え 屋敷神として
個人や企業などに祀られているものや 山野や路地の
小祠まで入れると稲荷神を祀る社はさらに膨大な数にのぼるという
厄落とし 「厄割桃」 [めぐり逢い]
前のコラムで 厄除け(桃)の神様を掲載したが
境内には 伊弉諾命(いざなぎのみこと)が魔物に桃を投げつけて
追い払った神話にちなみ 桃玉を厄割石に投げつけて厄を祓う
「厄割桃」(やくわりもも)がある 「厄落とし作法」は
1 厄割石の前に進み深く一礼する
2 お祓いした桃玉を胸の前で両手に持ち「厄よ去れ!」と念ずる
3 桃玉を厄割石めがけて投げ 厄を落とす
4 終わりに深く一礼する
なかなか面白そうな厄落としである
境内社 菅原神社 [な~るほど]
目の神様の鎮座する辺りは 川越八幡宮境内から裏参道へ
通ずる道の脇の 目の神様を過ぎた場所に鎮座するのが
この菅原神社(すがわらじんじゃ)であり 御祭神は菅原道真公
平安時代の学者・歌人だった道真公は 高い学識・教養と徳を持ち
多くの人々から尊敬され 学問の神様として篤く信仰され
学業成就の神様として また旅行・転居などの安全を守る
鬼門厄除の神様として 広く信仰されてきた 川越八幡宮の
菅原神社は境内社だが 川越駅近くには川越菅原神社があり
寛永元年(1624)妙善寺開山 尊能法印により勧請され 境内社として
天神社と称したが 大正2年 稲荷神社が合祀され
菅原神社と改ためたといい 川越市菅原町にある
目の神様の御神木 [な~るほど]
民部稲荷神社の奥に祀られる目の神様である 御祭神は
大国主命(おおくにぬしのみこと)少彦名命(すくなひこなのみこと)
大国主命と少彦名命は 神代の昔 兄弟のように力を合わせて
国作りをした神様で 国の内外を巡り 生きるための技術や
医薬の道を授け 病に苦しむ 特に「心身の目」に悩む人を
救いになり そのご神徳を慕い 現在でも
「眼病平癒」の神様として 広く信仰されているという
「目の神様」の隣にある御神木「目薬の木」は 日本にだけ自生する
珍しい樹木であるという 江戸時代から点眼薬や洗眼薬として
樹皮を煎じて利用されていて 結膜炎をはじめ
かすみ目や老眼 近視など 目の健康に役立つといわれている
どの家にも 一本植えたいと思う樹木である